2022年8月のこととか

❒ 8月3日
11時、歯医者へ。今回もほぼ歯磨き指導。結構頑張って丁寧にやっているつもりだったのに。

一旦帰って適当に食べて、池袋へ。友人とカラオケ。この友人とカラオケに行くと中学高校時代に一緒に歌っていた曲を未だに歌うので、懐メロ合戦みたいになる。ここ数年はカラオケなんてちょっと飽きたなと思っていたので、まさかもう一度ハマることになるとは。居酒屋で飲み直して帰った。

❒ 8月7日
今日から3日間休み。夕方まで甥っ子姪っ子達と遊ぶ。体がどんどん大きくなってきているものの、相変わらず懐いてくれていて安心する。一番上の子は小学6年生なので、もうそろそろ距離感が難しくなってくるのだろうか。

3日間も予定がなくて病みそうな気配がしてきたので、浜松町にあるプロジェクター付きのホテルを今日から2泊3日で予約した。さっと宿泊の荷物を準備して、電車で向かう。チェックイン。一旦外出して麺屋武蔵でつけ麺を食べた。コンビニに寄って色々買い込んで『グレイマン』を観る。音も良いし、ちょっとした劇場みたいですごく楽しい。映画自体も最初から最後までひたすら面白かった。王道の正しいアクション映画、正しいエンターテインメント。シリーズものらしいので、続編公開されますように。

夜、お酒を買い込んで少しだけ飲んだ。たくさん余った。そういえば、一人でお酒を飲みたくなることなんてほとんど無いんだった。YouTubeでたまに見るような「ホテルで一人飲み」に憧れてしまった。深夜徘徊したり、ダラダラしてたら朝方になっていた。本読んで就寝。

❒ 8月8日
割と早く起きた。昨日コンビニで買ったものを適当に食べて『ウェンディ&ルーシー』を観る。今まで観たケリー・イカート作品の中では一番好き。「若い女性と一匹の犬によるロード・ムービー」というジャンル性を解体するように、物語の大半は犬不在の中停滞しており、所謂ロード・ムービー的な開放感よりも閉塞感の方が強い。シンプルな内容ながらこういう裏切りがあるのが、イカート作品の面白さ。社会から疎外され、セーフティネットで救われることもない弱者への共感的な眼差しはダルデンヌ兄弟ケン・ローチの作品をも連想させる。主演のミシェル・ウィリアムズが素晴らしかった。

夕方、体がなまりそうだったので、無理してホテルの狭い部屋で運動。シャワーを浴びて、散歩に出かける。新橋まで歩いて、パーラーキムラヤという喫茶店に入る。ミニモニとかが流れていてタイムスリップしたような感覚。地下の変わった場所にあるいい具合に寂れた店なのに、次々と若い女性が入ってくる。純喫茶ブームを実感した。1時間くらい本を読みながらゆっくりして、歩いてホテルまで戻る。

夜、『ミークス・カットオフ』を観る。すごく地味な西部劇だが良い。ひたすら移動に次ぐ移動で、イカート得意のショットが冴え渡っている。開拓者一行のどうにもならない不安ーー信用できない男ミークと、信用できない(というより、文化も言語も道徳的な価値観も全く違い理解できない)原住民に案内を任せるしかない状況により、さらに高まる不安ーーと、主人公エミリーを始めとする女性たちの息苦しさや閉塞感を表すように画面比はスタンダード・サイズが用いられる。せっかく広大な荒野が舞台であるのに。いや、舞台が広大であるからこそ、一行の心情と対比をなすようにして、この狭い画面比が説得力を持つ。そして、シンプルなプロットながら王道からわずかに逸脱していくライカト作品特有の気持ち良さがこの映画にもある。普通の西部劇になるわけがないとは思っていたが、はっきりとした結末がつかず観る人に委ねられたラストも含め、やっぱり気持ちよく裏切られた。

深夜、散歩して午前3時ごろにホテルに戻ってくると、入り口横の受話器に向かってものすごい語気を荒げて怒鳴っている中年の男性がいる。宿泊先のホテルは深夜になると施錠されるので、中に入るには男の使用している受話器の真横にある装置に暗証番号を入力し、ロックを解除して入口を通らなければならない。狭い入口なので、今入ろうとすると絡まれる可能性が高い。刺激したくないのと半ば面白半分で待機して聞いていると、男は10分以上怒鳴り続けてからすごすごと帰っていった。思い切って「なんか今ものすごい怒ってる人いましたよね!」とフロントに電話して事情を聞いてみると、この時間にチェックインできないことに腹を立てていたらしい。係の人は「ご迷惑をお掛けしました」と申し訳なさそうに言う。「いえ、苦情じゃないんですよ。ただなんだったのか気になって」「大変ですね」と返す。ちょっと参っている感じだったので和ませたいと思い、軽く話してから部屋に戻る。すごく好青年な雰囲気だった。

気がつけばまた朝方。映画を観まくりに来たのにそんなにたくさん観れておらず、量だけで言えば結局家で過ごす休日とあまり変わらない。別にここに来たからといって時間が増えるわけではないので当然といえば当然だけれど。この設備でタルコフスキーの『ノスタルジア』を観たらさぞ美しいだろうと思い、軽く流し観してから寝た。

❒ 8月13
起床。台風で体がだるい。昼飯を適当に食べてからずっと布団の中でダラダラ過ごして、夕方にはうたた寝をした。夕飯を食べて、『プレデター:ザ・プレイ』を観る。冒頭から完全に映画的なショットの連続にいきなり引き込まれる。セリフも少なく筋立てもシンプルで、ほとんど"狩る""狩られ"かのアクションで魅せる超ストイックな作品。自然光のみで撮られた映像も美しい。当初から配信作品として制作されていたみたいだけど、ここ最近自宅で観たものの中でも最も劇場映えする作品なのでは、と思った。それぐらい映画としてちゃんと作られていて、素晴らしかった。

続けて『カモン カモン』を観る。観終わった後もしっとりと胸に残り、もう全く同じ人間ではいられなくなるような切実な映画。観る人によって受ける印象も考えることもだいぶ違うのでは。それくらい繊細で微妙な空気感が全編を通して流れている。自分にも甥っ子や姪っ子がいるので、関わり方を見直してみたくなった。

主人公ジョニーと数日間の共同生活を送ることになる甥っ子ジェシーの振る舞いは、一見めちゃくちゃに見える。その行動に注意を払い、言動に耳を傾けることは正直なところ面倒くさいだろう。しかし、その面倒な過程がいかに重要なことであるのかに気づかされる。この映画のメッセージ(のうちの一つ)はシンプルで、ちゃんと心の通った"対話"をするためには、ちゃんと"聞く"要があるということだ。自分の周りを見渡してみても、"聞く"力に優れている人は意外と少ないことに気がつく。そして、ちゃんと"聞く"ためには一旦立ち止まらなければならない。この流れの早い現代社会の中で、一旦立ち止まってみることの重要性はあらゆる物事に通じている。例えば「立ち止まって聞く」以外にも「立ち止まって見直す」「立ち止まって考える」などをついつい私たちは疎かにしてしまいがちである。「先へ先へ(C'mon C'mon)」進むためにも、時には立ち止まろう。

劇中、一般の子どもたちへの実際のインタビューが登場するが、その回答が思慮深くあまりにも素晴らしい。このドキュメンタリー・パートだけでも一本の映画として成り立ちそうなくらいに。インタビューに答えていた腕に刺青の入った子供が、その後流れ弾に当たって亡くなったと聞いてとても悲しかった。次の世代へ、少しでも明るい未来を繋ごうとする前向きな映画であるのに、世界のなんと皮肉なことか。「考えもしないようなことが起きる」と言っていたジェシーの言葉を思い起こす。

❒ 8月15
予定なし。起きて食べて『英雄の証明』を観る。緻密な脚本とストーリー・テリングの妙はまさに圧巻で、さすがアスガー・ファルハディ。やはり天才である。"英雄"は利用され、熱狂のうちに祭り上げられて消費される。主人公ラヒム自身も例外でなく、当初こそ"英雄化"することを望んでいなかったが、やがて世間からの注目を利用して窮状を脱そうとするようになる。そこに、場当たり的な嘘、ちょっとした善意や悪意、思惑のすれ違い、さまざまな利害関係、憎しみ、SNSによる無責任な世評などが積み重なって事態はどんどん複雑なものになっていく。ここらで『マグノリア』よろしく"カエルの雨"を降らせたくなってくる。あまりにシニカルだが、しかしそれでいてしっかりと現代の社会状況を反映した内容なので、観ていてむしろ気持ちが良い。

主人公のラヒムが全くの善人にはとても思えず、胡散臭い人物であることも物語を重層的なものにしている。お金の貸し手バーラムの娘ナザニンがラヒムに向ける視線。その視線が言外に物語るもの。ナザニンだけでなく、ラヒムの息子シアヴァシュを始めとする子供たちの視線には、何よりも豊かな情報が含まれている(シアヴァシュは吃音症で人より上手く言葉を発することができず、言葉数も少ない。それによって、より彼の"視線"は重要な意味を持つものとして強調されている)。

夕方、気合いで運動。夜、『祇園の暗殺者』を観る。家族を殺されて気が触れてしまった少女の顔、何度見ても独特の恐ろしさがある。呪怨の子供の顔よりよっぽど怖い。テーマ性的に、この映画より後に撮られた五社英雄の『人斬り』を思い出したのだけど、影響を与えているのだろうか。

❒ 8月17
午前中、歯医者。ここ最近は偏執的に歯磨き、糸ようじ、歯間ブラシをやっていたため、歯茎の状態はかなり良好だった。午後は映画館へ行くつもりだったけれど、マクドナルドへ入ったら長時間動けなくなってしまった。結局、よく行く古着屋2軒と古本屋へ行き、何も買わずに帰宅。

夜、『仇討』を観る。中村錦之助の熱演(怪演?)。特にクライマックスの殺陣は凄まじい。ほぼクライマックスのためにある映画と言っても過言ではない。ものすごい勢いで全て薙ぎ倒し、あわよくば体制までひっくり返してしまう中村錦之助が見たいと思ってしまうくらいにじわじわとフラストレーションが溜まっていくが、当然そんなカタルシスは訪れない。

『ある家族の肖像』観て寝た。

❒ 8月20
何かと最近行く機会の多い上野へまたしても。美術館も動物園もでっかい公園もアメ横もあるし、何でもあるけれどなぜかそこまで好きになれない街だったが、だんだん好きになってきた。

昼、たかはしで焼きあご塩らー麺を食べる。午後、上野公園を散策していたらビアフェスタなるものがやっていたので500円払って入場。会場内は、アイドルグループのライブなどで賑わっている。長浜IPAいうビールを500円で買う。混んでいてどこも座れないのでそのまま退場して、公園のベンチで飲む。1000円払ってビールを買ったようなものだ。苦くてなかなかクセのある味わいだった。安定の古城へ移動して、夕方までゆっくりする。

帰宅して『ニューヨーク公共図書館 エクス・リブリス』を観る。フレデリック・ワイズマンの作品らしく長尺だが、いざ実際に観てみるとその理由が分かる。ニューヨーク公共図書館の担おうとする役割と、それに伴う活動内容があまりに幅広いのだ。具体的には、書籍の貸し借りなどの通常の図書館業務に加え、司書による優秀過ぎるレファレンスサービス、リチャード・ドーキンスパティ・スミスエルヴィス・コステロ、タナハシ・コーツなど錚々たる顔ぶれを迎えたトーク・イベント、各種学習講座や読書会から、シニア向けのダンス教室、インターネットの接続に必要な機器の貸し出し、就職支援、住居手配などである。知の格差・情報の格差の解消を目指すことに留まらない"あらゆる格差の解消"を目指す、"ここに来れば何とかなるかもしれない"場所としての図書館。そして、決して少なくない時間が"図書館のあり方"決める幹部たちの会議のシーンに割かれているのも興味深い。いかに予算を確保するか、ベストセラーの本を取るか推薦図書か、紙の本か電子書籍か、ホームレスの対応をどうするかなど、真剣な議論が交わされる。

ナレーションやテロップによる説明もインタビューもなく、ただ"その場で何が行われているか"を映し出す簡潔な映像ながら、かなりはっきりとした政治的な意図を感じる。ワイズマン自身が「トランプ大統領が反対するすべての価値観を体現している」「この映画は暗示的に、トランプが異議を唱えるすべてを表すこととなった」と語ることからも明らかなように、この映画においてニューヨーク公共図書館は単に先進的な取り組みを行う場としてではなく、どんな人種や階層の人間でも幅広い用途に利用できる"民主主義の理想的な場"として象徴的に掲げられている。

❒ 8月23
朝、起きたら明らかに体が重く、体温計で測ると微熱がある。そういえば、昨日の夜から喉に違和感があった。職場に休みの連絡を入れ、近所の発熱外来へ。診察を受け、そのままPCR検査。3年以上まともに風邪をひいていないし、上手く説明できないけれどなんとなくいつもの風邪と違う感覚があるので、8割方コロナだろうなと思う。

午後はほとんど布団で寝ていた。映像を見たり本を読んだり音を聴いたりするのも辛いので、ただひたすら横になっているだけ。だんだん熱が上がってきて、38度台になる。頭痛がひどくなる。時々眠る。翌日までそんな感じ。

❒ 8月24
午後に陽性の連絡。だろうな、と思った。

自分は比較的症状が軽いようで、熱は微熱程度まで下がった。しかし、むしろ他の症状は昨日よりひどくなっている。咳のしすぎで喉は火傷したような痛みがあり、鼻水は滝のように流れ続けている。食欲は割とある。元気な時には、布団でドラマを観たりYouTubeを観たり本を読んだり出来るようになった。『ハウス・オブ・ザ・ドラゴン』と『ミズ・マーベル』を観て寝た。

❒ 8月27
療養5日目。だいぶ良くなった。熱もない。たまに痰が絡むのと咳が出るくらいで、体の感覚も普段に近い状態になってきた。

ドラマなど時間の短いものはちょこちょこ観ていたが、4日間は映画を観る気力と体力が全く無かった。発症以来初めて映画を観ようという気持ちが出てきて『ベルイマン島にて』を観る。ロケ地のフォーレ島の楽園のような美しさにまず心を奪われる。参照される『ある結婚の風景』のイメージから、この地で夫婦の地味な会話劇が展開されるのかと思いきや、割とマジカルな"創作"についてのドラマが描かれる。夫婦関係の移ろいよりも、どちらかというとそのドラマに引き込まれる。映画は、主人公クリスの創作過程を通して、次第に現実と想像が混じり合っていく。これは創作物の中に実生活からの影響を隠さないミア・ハンセン=ラブ監督自身の創作過程のイメージを表しているのだろう。

本作はイングマール・ベルイマンにオマージュを捧げつつも、一定の距離を置いているのも構造として面白かった。クリスは、ベルイマン島にて彼の霊感を受けるような形で脚本を完成させるのではなく、あらゆる場所でベルイマンの息吹を感じつつもあくまで自分の生活の中から"自分の創作物"を確立していく。また劇中、クリスは「9人の子どもがいながら5人の母たちに育児を任せきりであったから、50本弱もの映画を撮ることができた」というベルイマンの私生活に対して「好きなアーティストにはいい人でいてほしい」と批判的に語る。これは、"作家の私生活と作品は区別すべきか"という微妙な問題の一つの回答にもなっているが、子供を持つ女性の創作者としての立場を思うと頷けるところもあると思った。

夕方、『コントラクト・キラー』を観る。カウリスマキらしい悲哀のこもったコメディ。シンプルな筋立てだけど面白い。殺し屋のおじさんがセクシーで良い。ジョー・ストラマーの登場には声が出た。死ぬ勇気なんてなくて良かったんじゃん。

夜、『アトランタ』シーズン3を観始めた。ラジオ収録して寝た。

❒ 8月28
療養6日目。昨日と同じ感じ。

昼食べて『父、帰る』を観る。素晴らしい。美しい映画。背景がほとんど説明されず、全体的に謎めいた魅力がある。帰ってきた父の子供たちへの接し方は不器用で明らかに問題があるが、それでも確実に愛はあるのだろうと強烈に感じさせる演出が胸を打つ。水を美しく象徴的にとらえた映像は、同じロシアの巨匠タルコフスキーを彷彿とさせる。

夕方、思い切って軽く運動してみた。全然動いていなくて体力が落ちまくっているので、すぐに息が切れてしまった。そりゃそうだ。夜、『A Film About Coffee ア・フィルム・アバウト・コーヒー』というコーヒーについてのドキュメンタリー映画を観る。コーヒーにそこまで強い興味があるわけではないが、それでも結構面白いし勉強になった。特にコーヒー豆の生産の現場や精製の過程が見られるのは嬉しい。バイヤーやバリスタの話だけだったら、どことなく冷めた気持ちになってしまっていただろう。映像も美しくて一本のアートフィルムとして完結している。

❒ 8月30
療養8日目。

起きて食べて『恋する惑星』を観る。ウォン・カーウァイ作品は、映画好きになって以来「今更観なくていいや」を逃げ口上にずっと後回しにし続けてきたが、なぜか最近また参照されたり(バリー・ジェンキンスやクロエ・ジャオなど)再評価されることが多くなってきており、レストアもされたのでこの機会に初鑑賞。ストーリー上ほとんど交わらないうえに、時間配分が全然違う第1部と第2部で一つの映画になっているのがかなり不思議だった。第1部と第2部で心なしかタッチも違う。個人的には、全体的に第1部の金城武パートの方が好き。映像的には今見ても(今見るからこそ余計?)傑出している。スタイリッシュな映像で"ポップでクールな東アジア"をストリートの視点から打ち出した功績には尊敬の念しかない。ママス&パパスの「California Dreamin'」は流れすぎて少し疲れるけれど。

続けて『コロンバス』を観る。静かで地味な映画だが、じわじわと胸にくる。ある意味モダニズム建築が主役の映画とも言えるが、観ている間はただケイシーとジンの物語に身を委ねていればいい。小津安二郎の影響を感じさせつつも、ただ様式をなぞるだけでなく、独特の美しく静謐な映像スタイルを確立している。

夕方、運動した。2日前と違い、体が動くようになってきた。夜、イギリスから来た男』を観る。内容自体はハードボイルドで渋い作品だが、編集がとても普通ではなくて良い意味でなんだこれと思った。細かく時間や場所を移動したり、想像(やフラッシュバック)と現実を行き来する映像。過去のシーンでは、なんとそのまま60年代の映画『夜空に星のあるように』が挿入されている。筋立てこそシンプルだが、この組み立てによってそれ以上の豊かさを獲得している。ソダーバーグの偏執的なモンタージュへのこだわりが詰まった作品で楽しめた。

❒ 8月31
療養9日目。療養5日目から6日目以降は、ほぼ完治と言っていい状態だけれど、後遺症なのか痰が絡んでたまに咳が出る症状だけはしつこく残っている。今日もただ映画を観る。

昼食べて『修道女』を観る。アンナ・カリーナに抑圧され虐待される修道女のイメージは全然無かったけれど、観てみるとしっかり良かった。美貌ゆえにあらゆる場所で女として消費されそうになる役柄に説得力がある。やっとの思いで抜け出した修道院の外(世俗)の世界にも居場所がないというのは残酷過ぎる。

夕方、『冷たい水』を観る。瑞々しく、荒々しく、冷たい映像。生と死の匂いがむんむん。10代のある時期の刹那的な衝動を感覚ごとパッケージしたような作品。夜は、本を読んだりだらだらしたり。ここ数日、どうも寝る前にソワソワして深夜徘徊している。そうしないと落ち着いて眠りにつくことができない。