2022年12月のこととか

❒ 12月3日
12時前くらいに西荻窪。友人2人と予約していたGINAへ向かう。何度食べても美味いです。欲を言えば休日にも平日と同じランチセットの価格が適用されたら最高だ。ピザ3種しっかり堪能して、近くのアートギャラリーに入る。作家さんと思われる人が店員さんと楽しそうに話している。その後も中を回っていると作家と思われる人がどんどん入ってくる。そういうのいいよな。出て、古着屋へ向かう。大試着会。イタリア製の渋いセーターみたいなジャケットを買い、友人は淡い緑色のニットを買っていた。今日自分が着ていたジャケット、最近買って個人的に微妙かもしれないと思っていたやつだったが、友人2人がえらく気に入って決して安い価格でもないのに2人ともネットで同じものを買うと言い、店内でサイズ検討会をして盛り上がった。あんまり褒められるもんだから一気にお気に入りの服に変わった(単純)。

しばらく散策。毎度思うのだけれど、西荻窪一帯の個人店の充実度は本当にすごい。アンティークショップ、ギャラリー、雑貨店、書店、それに修理工房のようなところも何度か見かけて文化的な豊かさを感じる。なみじゃない杉並。どこか喫茶店へ入ろうということになり、松庵文庫へ向かう。満席。しばらく散策して、どんぐり舎へ向かう。満席。道中、置いてあったギターを弾こうとチューニングをしたら弦が錆び錆びで1弦を切ってしまった。ニシオギのシンボルである大ケヤキもきっちり拝んだ。乙女ロードにあるオーケストラというカフェに入る。ちょうど大きいテーブル席が空いたところだった。店内はカレーのいい香りで充満している。チャイと週替わりのデザート(ブルーベリーレアチーズケーキ)を注文。店員のお姉さん気さくでめちゃめちゃいい人。

荻窪まで1駅分電車に乗って、喫茶店邪宗門に入る。前々から訪れてみたかったお店。店内はかなり狭い。ドアを開けると時間的にも空間的にも全く別の小宇宙に来てしまったような感覚がある。昭和30年からずっとここで営業しているらしい。落書き帳(たまに喫茶店に置いてあるらくがき帳を読むのとても好き)や壁の落書きの記載も古いものが見られる。コーヒー1杯出てくるまでにも結構待たなければならないので、強制的にゆったりとした時間の流れを感じさせられるのがとても良い。店主のおばあさんが狭くて急な階段を何度も上り下りしていて頭が下がる思いがする。コーヒー飲んで喋って一服。腕相撲する。この時に白熱しすぎて、後日左腕が筋肉痛になる。

夕飯時になったので店を探す。どこも混んでいる。お腹の減り具合も微妙で、結局焼鳥屋に入る。意外と美味しくて、みんな意外と食べた。何杯かひっかけて解散、帰宅。深夜、友人と服の話をして、友人の探している服や気に入りそうな服をひたすら送りつけていたらいつのまにか相手が寝落ちしていた。就寝。

❒ 12月4日
起床。最近長く寝られない。午前中は配信していた友人の話をずっと聞いていた。午後も14時過ぎくらいまで友人の歌を聴いていた。

『愛情萬歳』を観る。人間同士の交流はあるのに、そこにあるはずの会話を極限まで削ぎ落とすことによって、都市に生きる若者たちの孤独と虚しさを浮き彫りにしている。本作が公開されたのは1994年だが、2022年に生きる若者たちの抱える孤独感とほとんど変わらず共通している部分があるし、キャラクターにも都市の描写にも国籍を超えた(無国籍的な)普遍性がある。結構笑えるシーンが多くて、孤独や虚しさと表裏一体にある滑稽がきちんと描かれているところも良い。人間は滑稽な生き物なのだ。

夕方、コーヒー飲んで少しうたた寝。起きて運動する。初めてプロテインを飲んでみたが、ココア味を牛乳で割ると結構うまい。

夜、『浮き雲』を観る。自分がアキ・カウリスマキの映画に惹かれるのは、深刻な社会状況を見つめつつもユーモアと人情を忘れず、常に人間の営みを大げさでなくゆるやかに肯定してくれるから。その多くの登場人物たちと比較して自分の生活や環境などは遥かに恵まれているが、物語は不思議と身近なものとして胸に響いてくる。本作は、他のカウリスマキ作品と比べても割とはっきりとしたハッピーエンドの体裁を取っていて、ラスト20分間のゆるやかな感動の手さばきにグッとくる。主役の夫婦の憎めないキャラクターもカウリスマキらしくて良い。

❒ 12月10日
ギリギリ午前中に布団から出る。ストレッチ。飯を食べて出かける準備をするも、なかなか出られず15時頃になる。特に行くところも決めずノープランで家を出る。滅多に電車で眠ることはないのに、今日はなんだかやたらと眠くて船を漕いでいるうちに遠くの駅まで来てしまった。せっかくなので気になっていた喫茶店に行こうと、白山駅で降りてペガサスに入る。若い人もちらほらいるが、基本的に近所のおじさんたちが集うお店という感じ。常連が次々と来る。かなりヘビースモーカーのお姉さんがいて、タバコに火をつけるたびに気になってこっそりと観察していた。人が美味そうにタバコを吸っているのを見ると吸いたくなる。喫煙可の喫茶店非喫煙者だとなんだか損したような気持ちになる(最近はタバコを吸っていない)。

運悪く店のど真ん中の席で、本を読む気もおきず早めに出る。クソ暇だ。近くの小さな神社で葉擦れの音を聞きながらしばらくボーッとする。服、タバコくせっと思いながら。寂しい。でもそれがいい。映画館というジャズ喫茶に向かう。準備中の札がかかっていて入れない。店内は人が結構いるので貸切か何かだろうか。しばらく白山周辺を散策して、神社や公園を巡る。もう一回ジャズ喫茶を覗いてみた。入れない。仕方なく電車で帰って近所のマックに向かう。久しぶりにビッグマック。普通のセットと10円しか変わらなかったからLLセットにした。持って来た本を読む。

夜、あんまりいい日じゃなかったな、と思って少し虚しくなった。就寝。

❒ 12月11日
映画2本観て運動しただけの日。

ウィンターズ・ボーン』。思ったより遥かにスリリングな映画だった。乾いたタッチのサスペンスで非常に好み。映画らしく説明は少ないけれど、アメリカのヒルビリー事情や文化もよく分かる。「貧困から抜け出すためにまだ17歳の少女が軍隊に入ろうとする」という現実的な場面がさらっと描かれるようなところも良い。あえて"描かない"ことで多くを描いたり、想像力を喚起したりするような造りも名作の風格を備えている。

トーマス・べズーチャの『すべてが変わった日』やテイラー・シェリダンの『ウィンド・リバー』、コーエン兄弟のいくつかの映画(『ファーゴ』や『トゥルーグリット』など)、それからコーマック・マッカーシーを少し思い出す。初主演のジェニファー・ローレンスがどハマり役。

『囚われの女』。シャンタル・アケルマンの映画は1970年代の作品しか観たことがなかったので、2000年に公開された本作では、きちんとカットを割ったり切り返しのショットを使ったりしていて"普通の映画"の撮影手法に近づいているところにまず新鮮さを感じた(さすがに全然普通の映画ではないのだけれど)。しかし、どういう文脈かは分からないが、アケルマン自身は本作が「初期の作品に似ている」と言っているし、80年代にはコメディ作品も撮っていたようなので、その間の公開作品も機会があればきちんとチェックしたいと思う。

映画の話法としては洗練されたとも言えるけれど、個人的には『私、君、彼、彼女』(1974)、『ジャンヌ・ディエルマン』(1975)、『アンナの出会い』(1978)などのむき出しのスタイルの方により惹かれてしまうことは否めない。だが、圧倒的に女性が画面の中心にいた前述の作品群とは違い、男性のシモンが(表の)主人公であることによって、抑圧(囚われ)や不安の構造を男女の"関係性"から炙り出しているところには、かなり面白みを感じた。

❒ 12月17日
起床。天気悪くてめちゃめちゃ寒いので引きこもる。ニック・ドルナソのグフィックノベル『アクティング・クラス』を読む。5000円するので何日か逡巡した後、結局購入した。それだけ迷っていたのにも理由があって、実は10月と11月の給料がまだ入っていないのだ。令和の時代においてもまだこんなことがあるなんて。結構な分量だが、前作『サブリナ』以上の「なんだこれ?」感に引き込まれて一気に読んでしまった。また後でもう一度読み直そう。

昼食べて『足跡はかき消して』を観る。デブラ・グラニクの前作『ウィンターズ・ボーン』と同様に決定的な盛り上がりのようなものはないし、深く描けそうなところにもあえて踏み込まない。それだけに余韻が素晴らしくて、静かにじわじわと胸を打たれる。主人公の父親ウィルが森の中での生活にこだわっているのも、カウンター・カルチャー的なロマンティシズムや信念や哲学的な理由でなく、帰還兵としての疎外感やPTSDの影響が大きい(ここにも映画は深く踏み込まず、ゆるりとその影が全体を支配する)ところに、より重たいリアリズムを感じる。少し似ている思った『はじまりへの旅』のラストよりも断然好きだし泣けます。

夕方、『コズモポリス』を観る。物語的なカタルシスはほとんどないし、娯楽性も薄く、場面もほとんどリムジンの中だが、結構いろんなことが起きてくれるので、頭の悪い自分のような人間でも楽しめた。映像的にも鮮烈なところはほとんどないが、夢的な質感や非現実感がのっぺりと張り付いているようで、それがかえって魅力的でもある。最大の魅力である会話は大部分分からなかったけれど、形而上学的な会話それ自体が資本主義の幻性や不確かさと接続しているようで体感的に入り込める感覚がある。ドン・デリーロの原作に興味をひかれる。

夕食後、運動をした。深夜、久しぶりにラジオパートナーと収録。ボツかもしれない。朝方に就寝。

❒ 12月18日
寒さに弱すぎてまた引きこもった。なんだか最近胃の調子が悪い。何年か前に患った逆流性食道炎の気配が少しある。夜になると明らかに胸や喉のつかえた感じがする。今はまだその時ほどひどい症状ではないけれど、悪化したら長期間本当に何もできなくなるので気をつけなければ。でも、前回も気をつけようと思った時には既に手遅れだった。一度本格的に発動してしまうと、そこからいくら食事や生活を改善しても一向に治らないのだ。常に不快だし、ひどい時は1日中何も食べられなくて何度も気持ちが折れた記憶がある。そういえば最近結構食欲があって、夕食に脂っこいものをばくばく食べていた。動物の肉など散々余分なカロリーを摂取して余計で贅沢な食事をしていた結果の自業自得なのだから、ちょっとざまぁみろという気持ちもある。

映画を2本観た。

アトランティス』。ロシアとの戦争終結後の世界に想像をめぐらせ、ワンシーン・ワンショットの長回しによってスケッチ的にとらえられた映像は、どこを取っても静と動のダイナミズムに溢れた力強いショットばかりで引き込まれる。PTSDを患った一人の元兵士のパーソナルな物語でありながら、全編を通して多用される引きの構図は、まさにその"背景"を強調しており、あらゆる「戦後」世界への普遍的なアナロジーを見いだすことさえできる。

『スウィート・シング』。何か忘れていたものを思い出させてくれるような、インディペンデント映画らしい煌めきで溢れている。16ミリフィルムによる粗いモノクロの映像は、時代や場所を超えて観る者を子供の頃の記憶へといざなうが、安易なノスタルジーを差し出すだけではない。社会的弱者など、今現在においてもしばしば忘れられがちな存在へ目を向けるための想像力を与えてくれる。90分の小さな、パーソナルな映画ながら主人公ビリーの名前の由来となったビリー・ホリデイの生涯が重ねられることで、奥深く重層的なプロットになっているところも巧みだ。

映画は時折鮮やかなカラー映像を用いたり、アイリスアウトや落書きのような字幕を挿入したりするなど、チャーミングな遊び心とユーモア感覚を忘れない。登場人物(子供たち)がどれだけ苦しい状況にあっても、そこに微かな希望の兆しを示し続けるかのように。アレクサンダー・ロックウェルはインタビューで「ビリーの想像力が自由になっている時をカラーにしてみようと思った」と答えている。勝手に深読みすると「人間の想像力こそが一番の希望の光である」というステートメントなのかもしれない。ビリー役のラナ・ロックウェルは可愛いし存在感もあるので、これからの仕事をもっと観たい。それから、アレクサンダー・ロックウェルの今後の映画ももっと観たいです(2013年の『Little Feet』も観たい)。

❒ 12月24日
仕事。土曜日だから映画館に行こうと思っていたのに。お高めの服でも買ってバランスを取ろうと、前から目をつけていたジャケットをネットでチェックしてみると、幸か不幸か販売終了していた。元々はこんなメンタルバランスの取り方をするタイプではなかったが、いつの間にか変わってしまった。

特に学生の頃なんかは、タバコが吸えてバンドさえできていればそれで満足だった。完全に、タバコ>飯。物欲もほとんどない。旅行もほとんど行かず、長期休みも家で一日中本を読んだり映画を観たりしていた。外食はしてもサイゼリアばかりで、全くお金がなければ誰かが奢ってくれた。お酒は居酒屋でなく缶で買って外飲みをすることも多く、コンビニでお菓子なんて買わないし、喫茶店なんてものは世界に存在しなかったからそこで一杯のコーヒーを飲む贅沢も何もない。服は安い古着を買うか、人から貰うか、1年に1回くらい親に買ってもらえばいい。本屋にはよく長居していたが、本は大体図書館で借りるか、古本屋で100円で売っているボロボロの古い岩波文庫なんかを買って読むことが多かった。映画も映画館に行ったりTSUTAYAで借りて観たりするより、実家で契約しているケーブルテレビで観た本数の方がきっと多いだろう。音楽も音楽好きの友人たちから借りて聴いた割合がかなり多かったと思う。

今となってみれば文化にお金を落としてなさすぎだろと思うし、メンタル面での浮き沈みや不安は当時からたくさんあったけれど、生活水準が上がった現在の方が幸福度が高いかと聞かれれば、胸を張って「イエス」と答えられる自信がない。これは個人的にとても面白い自己調査結果でもある。

帰宅して適当に食べる。6連勤したら体がバギバギ。ソフトバンクから楽天モバイルへ乗り換えの手続きをする。すんなりいった。そんなクリスマスイブ。

❒ 12月25日
起きて食べて散髪。もう少し長めに残したかった。よくセルフカットなんてできるね、と時々言われるけれど、大事なのは技術より諦念だ。その後、運動した。自己肯定感が高まった。

映画を観る。『ギレルモ・デル・トロピノッキオ』。舞台を第一次世界大戦中のイタリア(ムッソリーニによる独裁政権下)に設定し、戦争やファシズムへの批判的なメッセージを強く盛り込んでいるところや、人間以外の生物たちと異形への愛で溢れているところなど、タイトルの通りめちゃめちゃデル・トロっぽい「ピノッキオ」だった。カルロ・コッローディによる原作小説の『ピノッキオの冒険』をどこまでいじったのか細かくは分からないけれど、奇跡的なくらいデル・トロテイストがハマっている。「ピノッキオ」の物語の中に、ここまで強く「支配と自由について」のテーマを意識したことはなかった。悲しいかな今日性がある。

ピノッキオの造形もキャラクターも可愛いし、それ以外のキャラクター(ゴキブリのクリケットや猿のスパッツァトゥーラなど)が愛らしくて魅力的なところも良い。そして何より、ストップモーション・アニメのクオリティがとてつもなく高い。ちょっぴりダークだけど、子供でも全然楽しめる作品。

夜、前から目をつけていてセール待ちしていた服が気づいたら20パーセントオフになっており、しかも売り切れてしまっていた。昨日に続いて。だけど、他のサイトをよく探したみたら結果的にもっと安く買うことができた。そんなクリスマス。

❒ 12月28日
今日から休み。用事のため出かける。近くのデパートに寄り、GUでスウェットなどを買う。スウェットはガンガン洗えるしセーターより楽だから好き。色々試してきたけれど、もう全部GUでいいかもしれない。図書館に行って『何もしない』『21世紀の道徳』『日本移民日記』『自分の謎』を借りた。

荷物を置くため一旦帰宅。新宿に『ケイコ 目を澄ませて』を観に行く。極めてミニマルでストイックな映画ながら、エモーショナルな瞬間がそこかしこに転がっていて何度も涙してしまった。押し付けがましい感傷性は皆無であるにも関わらず。映画を観ていると観客をナメすぎだろと思うことが多々あるけれど、この映画の前では作品と観客が完全に対等な関係でいられる。実際、100人いたら100人がそれぞれ違う場所で泣いてしまうのではないだろうか。主人公のケイコが聴覚障害を持っているという設定も、感傷を呼び起こすための装置としてあるのではなく、あくまで一人の人間の個性として捉え、その日常を丹念に積み上げていく姿勢も誠実だ。

徹底して「音」にこだわった映画でもあり、ミットやサンドバッグを打つ音、縄跳びを飛ぶ音などのトレーニングに関する音は、時に音楽的なリズムを奏で、あらゆる環境音はクリアに聞こえる。ただ、それら全てはケイコの耳に入っていないはずの「音」だ。ここで強調される「音」によって、観客はケイコへの共鳴とともに常に断絶を意識させられることになる。聴者はろう者ではないし、観客はケイコではない。わかった気になってはならない。できるのは目を澄ませて、ただ想像することだけである。

自分は観ている間、映像のあまりのミニマルさとストイックさに少々面食らいつつもぐいぐいと引き込まれ、そして気づいた頃にはこの映画の虜になっていた。それは物語の吸引力というより、もっと大きな物語=演技、さらに具体的に言えば、99分の間に起こるケイコのわずかな表情の変化によってである。岸井ゆきのの演技は言うまでもなく素晴らしいが、もう一つの主役=「コロナ禍の東京」の空気をキャプチャーした作品としても歴史的な傑作になったと思う。

映画というアートフォームにおいて必要不可欠な要素は実は極めて少ないのかもしれない。ただそのわずかな要素の強度によってのみ作品の良し悪しは決まるのだ、という事実を、制約の多い16ミリフィルムによる撮影によってまざまざと見せつけられた気分だ。正直言って、2022年に日本の映画によって「物語ることとは何か」を改めて考えさせられるとは、思ってもみなかった。

パンフ買って帰宅。夕飯食べる。夜、本読んで寝た。

❒ 12月29日
13時頃、池袋。目的は雑司ヶ谷の散策。そのまま直接歩いて向かう。雑司ヶ谷エリアというより、目白通りをひたすら歩いていた。途中、オーガニックのお店でプロテインバーとポップコーンを買う。プロテインバーはスピルリナ藍藻の一種らしい)という聞いたことのないものが入っているのに興味を惹かれた。ポップコーンはさっぱりしていそうなので、昼食後にどこかでつまもうと思った。

年末休みに入っているお店が多かったり、ちょこちょこあるおしゃれなショップに引き寄せられたりしてなかなかご飯にありつけない。最終的に目白駅近くのシリジャナというカレー屋に入る。安くて美味い。出て、また歩く。目白台の方にあるTOYAというお店はセンスとこだわりが詰まっていてとても良かった。店を出てからもいくつかのアイテムがずっと気になっている。雑司ヶ谷駅の近くには、なかなか見られないレベルの大きな坂があった。調べてみるとのぞき坂という『天気の子』にも登場した有名な場所らしい。

本当はカフェに寄ってプリンを食べたかったのだけど、カレーでお腹いっぱいすぎて断念。あと、雑司ヶ谷霊園を見るのをすっかり忘れていた。リベンジしたい。都電荒川線に乗ってみるのもいいな。夕方、帰宅。本読んでだらだらして調べ物をしていたら一日終わった。

❒ 12月30日
家で映画2本観て運動するだけのよくある休日。

『リフレクション』。『アトランティス』同様、強力なワンシーン・ワンショットの連続。静謐な画面の中でゆっくりと時間をかけて映画は語られ、時には突然事が起こるので一切目が離せない。2作同時に観ることで、戦争の真の悲惨は戦後にまで続くのだという現実を強く焼き付けられる。これが世界の現在であり未来であるという事実はあまりにも重いが、目を逸らしてはならないのだろう。

『獅子座』。ロメールの長編デビュー作。デビュー作には全てが出るという説もあるが、本作はロメール作品の中でもかなり特殊である。まず、中年期のマーロン・ブランドジャック・ニコルソンのような(そこまでの風格はないにしても)熊みたいな男性が主人公であることからして特別な一編。そんな風采のあがらない主人公がパリの街を歩き続けるショットは確かにロメールで、ある意味超チャーミング(?)な映画。でも観ている間は「実はフィルム・ノワール?」とか「いやいや、ネオレアリズモ?」とか思ったり、このままどうなってしまうのか分からないドキドキ感があったり、結構サスペンスフル。そして、普通におとぎ話みたいに終わる。

夜、すき焼きを食べたからか、逆流性食道炎の症状がいつもより少し重い。

❒ 12月31日
6時半頃目が覚める。昨日は結構夜中まで起きていたはずだから睡眠時間3時間半ぐらい。2度寝したくてしばらく布団にいると、急に鼻水がダラダラ出てきた。風邪かなと思いよく見ると鼻血。しかも全然止まらない。あまり体調が良くないのかもしれない。朝からずっと胃も変。思い切って起きてストレッチ。

『その道の向こうに』を観る。とても良かった。淡々としているけれど味わい深い。同情し傷を舐め合うのではなく、ひたすら痛みと向き合い分かち合う。人間同士がただ一緒に過ごし丁寧に交流を重ねることで少しずつ、だか着実に歩を進めていく。SNS時代やコロナ禍だからこそ、実際に人と会って過ごすことの大切さをより強く感じさせる。

ウィンターズ・ボーン』で兵士になろうとしていた少女を演じたジェニファー・ローレンスが自らプロデュースした本作で、今度は重い後遺症を負った元兵士を演じているところには繋がりがある。戦争のPTSDやトラウマと向き合う姿は『アトランティス』(や『リフレクション』)とも通ずる。現在、そしてこれから世界が向き合うことになる重みである。手話によるコミュニケーションの静かな熱気、それから一人の女性と誠実に向き合うカメラからは『ケイコ 目を澄ませて』を連想した。2022年もいい映画にたくさん出会えた。

夕方、少し寝た。

夜、蕎麦とカツサンドを食べた。本日初飯。テレビも一切見ていないし、普通にいつも通り過ごしすぎて全然年末感がない。年明けた。何人かと「あけましておめでとう」を交わす。配信が今日までになっていたロメールの短編を数本観て寝た。

年末なので、2022年に公開した映画の個人ベストを。
1.『スペンサー ダイアナの決意』
2.『ケイコ 目を澄ませて』
3.『彼女のいない部屋』
4.『アテナ』
5.『窓辺にて』
6.『英雄の証明』
7.『FLEE フリー』
8.『プレデター:ザ・プレイ』
9.『TITANE/チタン』
10.『リコリス・ピザ』

次点で『カモン カモン』『アポロ10号 1/2:宇宙時代のアドベンチャー』『NOPE/ノープ』『ギレルモ・デル・トロピノッキオ』『その道の向こうに』『パリ13区』『フレンチ・ディスパッチ』『エルヴィス』など。

トップ3本は割とすぐ決まったけれど、4位以降の順位は次点も含めてあって無いようなもの。深く考えるのをやめにした。『THE FIRST SLAM DUNK』を観たら10本のうちのどこかに入りそうな気もする。他にも『わたしは最悪。』『リフレクション』『あなたの顔の前に』など好きな作品はたくさんあったが、キリがないのでとりあえず割愛。

2023年もよろしくお願いします。