2024年2月のこととか

❒ 2月3日
ノートパソコンが届いたので、セッティング。めっちゃいい。放置していたプリンターもセッティング。どうしても無線LANで繋がらないから結局USBケーブルで繋ぐ。前時代的。家で映画観て運動した。

『ショーイング・アップ』:オレゴン州ポートランドに住む芸術家の話というと特殊なようだが、日常の面倒なあれこれに翻弄されて思い通りにいかずもがく姿はリアルで普遍的だ。その様子をあくまで軽やかに、ユーモラスに描いているのが面白い。プロットの起伏より、絶妙なニュアンスやディティールの中に不思議な魅力がいくつも転がっている。何より鳩映画なのがお気に入り。

『サントメール ある被告』:一見すると地味だが、観ているうちにじわじわとドラマが浮かび上がってくるようなスリリングな法廷劇だった。実際の裁判記録をほぼそのまま再現した法廷でのセリフは、複雑な事情を複雑なまま提示している。安易なジャッジはできないし、真実を見つけることも難しい。劇映画としては、そこにラマという架空の人物の視点を交えているところも重要で、作品をより奥深いものにしている。静謐で美しい映像表現も良かった。

❒ 2月4日
みんなで実家に集まろうの日。久しぶりにお酒を飲んだら眠くなった。親戚のおじさんも一瞬来て、久しぶりに顔を合わせた。夜はタコパ。父はとても喜んでいた。

『それでも私は生きていく』を観る。父の病への不安と悲しみ、恋の喜び。悪い出来事と良い出来事が同時並行的に起こり、複数の役割を同時に担わなければならないのが人生というものだ。35ミリフィルムを用いて撮影された映像はそうした悲喜交々をナチュラルに、それでいて美しく映画的にとらえている。監督自身の言葉を借りると「少し距離を感じさせ、それでいて共感を抱かせる」映像だ。誘惑的な面を削ぎ落とされたレア・セドゥがかえって神秘性を帯びているように見え、作品を特別パワフルなものにしている。「本人よりも本を見るほうがパパを感じる。それぞれの本に色があって、合わせるとパパの肖像画になるの」というセリフが今の自分に切実に響いた。

❒ 2月11日
昨日から実家に集まっている。父・母・姉・姉の旦那さん・弟・甥っ子×2・姪っ子。いろいろ話したり子供たちと遊んだり。13日に父はホスピスに入る予定なので、実家でこのメンツで集まれるのもこれで最後かもしれない。容態も日に日に悪くなっていて「昨日はできたことが今日にはもうできなくなっている」というのが当たり前の日々。飯もほとんど食べられず、昨日鰻を2切れ食べたのが信じられなかった。「うまい」と。みんなが買ってきてくれたから意地なのかもしれないけれど。

せん妄も強くなってきた。体はガリガリで、お腹は腹水で膨れ上がっている。昨日まではなんとか自力で立つことができたが(医師によれば病状からするとそれも奇跡的らしい。父は元々体力が凄まじいのだ)、今日はもうそれもできなくなっており、当然トイレに一人で行くこともできないから、二人がかりで運んでパンツを脱がせてあげなければならない。着替えや体を拭くのも一苦労。みんな経験が薄いものだからあたふたしてしまう。正直言って、日に日に弱っていく姿を見るのはかなりつらい。甥っ子たちは本当にいい子で、心から心配してくれている。みんなで形見の数珠をもらった。もう一泊するつもりが、姪っ子が熱を出したため姉夫婦たちは帰宅。

夜も遅い時間、近所の映画館へ。レイトショーで『夜明けのすべて』を観る。見知らぬ誰かや遠くの誰か、すれ違う人々、近くの友人、家族、同僚、クラスメートに思いを馳せ自分を見つめ直すきっかけになるような素晴らしい映画だった。

中心から外れざるを得ない、周縁に近い場所で生きる人々の繊細な感覚と営みを同じ高さから掬いあげながら、いわゆる「傷の舐め合い」とはまったく違う(登場人物同士だけでなく「観客」と「映画」の関係も含めて)、そして恋愛ともまた違う支え合いの純粋な美しさをとらえている。

同じ高さではあるが近づきすぎない距離感が絶妙だ。どんなに解ろうと思っても他人には絶対に理解できない部分があるはずだから。そういう意味では、あまり寄りすぎずに人物をとらえつつ映えない景色やなんでもない場面の些細な美しさまで拾いあげるカメラは、映画のテーマやプロットと完璧に共鳴している。16ミリフィルムを用いたミニマルな撮影・映像でもこれほど多彩な表現ができる。

ユーモアセンスも抜群で、登場人物の何気ないやり取り(おしゃべり)が楽しい。前作の『ケイコ 目を澄ませて』と比較すると言葉数が多く、冒頭と終盤には長めのモノローグもある。それがまったく野暮なものに感じられないのは、言葉(声)を撮る映画としての必然性があるからだ。

夜中3時ごろ、父が心配になって見に行くと。ベッドに腰掛けて座って下を向きフラフラしていた。夜中も座ってうとうとするのと、寝っ転がるのを繰り返しているのだろう。声をかけてみると驚いていた。言ってることが支離滅裂で、たまにしか意味が分からない。背中が痛そうだったからさすってあげた。加湿器も切れていたので水を入れた。寝っ転がれる?と聞いたら、寝っ転がってくれたので「おやすみ」といって自分も寝た。明け方5時ごろに大きな物音がしたので起きてかけつけると父がトイレで倒れていた。オムツを履いているのに一人でトイレに行ってしまい、座ろうとして倒れてしまったようだ。オムツの中に便をしていた。まだ出るというのでなんとか便座に座らせてしばらく待つ。そのまま立たせて、オムツを取り替えようとするもどうにも大変でそのまま地面につぶれてしまう。その体勢のままなんとかオムツを替える。服やいろんなところに排泄物がついてしまった。そこからまた立たせて歩行を介助するのはどうにも厳しく、母と二人がかりで持ち上げてベッドまで運んだ。今度はズボンを履かせる。それすらも一苦労。

❒ 2月12日
父は昨日よりさらに起き上がれなくなっていて、せん妄もひどくなり、言葉ももっと支離滅裂になっている。今日は近くでつきっきりで見守っていた。何を言っているかほとんど分からないが、昔の仕事の不安などが蘇ってくるようだ。「大丈夫だよ。今はそんなこと気にしなくていいから休んで」と言うと「そっか」と安心して眠ることが多い。一人でベッドに座る体勢も取ることができなくなった。水を飲ませるのも薬を飲ませるのもどんどん難しくなっている。

夜中2時半ごろ、気になって見に行くと起きていた。喉が渇いたと言うので体を抱えて起こして水を飲ませる。そのまましばらく話をする。言葉は分からないことが多いけれど、何かを訴えようとしている。それを聞く。「もう寝れる?」と聞くと「寝れる」と言うので、横になるのを手伝って自分もベッドに入る。目が冴えてしまってなかなか眠れなかった。

❒ 2月13日
休みを取って父のホスピス入院に付き添う。朝、姉と姉の旦那さんにも来てもらった。姉の旦那さんと一緒に持ち上げて車まで運ぶ。久しぶりに車に乗る父は、外の景色を真剣に眺めていた。到着。車椅子で運び、職員・看護師・医師の説明を受ける。一旦昼を食べに出かけたが、血液検査の結果がかなり悪く、すぐに電話で呼び戻される。今すぐという可能性もあるくらいだから、誰かいた方がいいそうだ。母を残して、ホスピス近くのパン屋に行って買って戻る。ロビーでみんなで食べた。父は運び込んでからずっと寝ていて起きる気配がない。昨日や今朝とはまたさらに雰囲気が変わった。今日は母も疲れ切ってしまったから、一旦帰ることにした。すこしだけ実家で話してから解散。しばらくすると異常にぼーっとしてきて、自分も疲れていることを実感した。

午前1時過ぎ、布団に入ろうとした直前に連絡があり、ホスピスへタクシーで向かう。着いた時、痛みで苦しそうに暴れていて「こんな状態でこのまま亡くなるのかよ」と衝撃を受けた。その後は、痛み止めを調整してもらって、弱々しくも落ち着いている時間が増えていった。母・姉・弟も揃った。一時間に一度痛み止めを打ってもらいながら一晩中見守り続けた。

❒ 2月14日
父は朝方まで寝付けずにいた。これではあまりに苦しそうなので見かねて、眠れるよう薬を調整してもらうことに。本人はそれが嫌な様子だった。ちゃんと言葉を理解している。今眠ったらそのまま目覚めることはないと思ったのかもしれない。みんなも心のどこかでそうなるかもしれないと思っていた。でも、これが正しい選択なのだという気がして、ためらいは無かった。みんなで笑いながら「大丈夫、大丈夫、眠るだけだから。ちょっと休もう」となだめた。父もニコッと笑った。この状態でもちゃんと理解していて笑うことができるなんて不思議だった。「朝8時に起こしてあげるからね」と姉が言う。

朝、父が亡くなる。享年66。家族で最期を看取ることができた。みんなでたくさん声をかけることができた。正直、壮絶な体験だった。いくつかの場面が脳裡に焼きついていてる。亡くなる直前の下顎呼吸。それがだんだん弱々しくなり、呼吸の間隔が極端に長くなり、ついに止まってしまった。かと思いきやもう一度返してくれる。周りの呼びかけに答えるように。その一回一回にいちいちホッとする。しかし、ある時を境に次の一呼吸が返ってこなくなる。もう一度返して欲しいとみんなで願う。ついに亡くなってしまったのだなと実感する。姉は過呼吸を起こすほど泣いていた。元々おしゃべりな弟は呆然としてしまって、一言も喋らなくなったかと思うと、だいぶ経ってから突然泣き叫び始めた。一番食らっていたのだな。姉と一緒になだめる。

自分と母は、午後葬儀社へ。大体のプランや段取りは決めていたからまだ良かったものの、疲労の限界でなかなか頭に入ってこない。タクシーで実家へ帰る。夕方までしばらく話す。父の悪口と笑いも交えて。いないのが悪い。飲み会だってなんだって、いないやつはいろいろ言われるものだ。夕方、解散。布団に入り6時間くらい眠った。夜、ぼーっと。明け方もう一度寝た。

❒ 2月15日
起きた。みんな想像以上に食らっていて、一日中LINEでやり取りをする。これは明らかに自分が一番マシな状態だなと思う。喪服を着てみたらキツかったので父のを借りてみる。逆にちょっとデカいけれど、このほうが弔いになりそうでいっかと思う。

夜、吸い込まれるように映画館へ向かう。レイトショーで『瞳をとじて』を観る。物語の力(ミステリーとサスペンス)でぐいぐい引っ張っていくような作品であることにまず驚かされる。今のエリセってこんな感じなのか。言葉数(会話劇)が多く、切り返しショットが多用されるなど『ミツバチのささやき』や『エル・スール』とはだいぶタッチが異なるが、上記の2作を「娘の視点から父の不在を感じる」映画であるとすれば、父の捜索から発見へと至る本作の物語には連続性がある。そう考えると、アナ・トレントがアナとして登場する(『ミツバチのささやき』でアナは幽霊を呼ぶために「瞳をとじて」いた)のも本作の物語における必然であるように感じられる。過去と記憶とアイデンティティを巡る物語をより重層的なものにしている。

主人公ミゲルにはビクトル・エリセ自身が重ねられ、監督自身の半生(完成させることのできなかった映画への想いなど)を反映している。『エル・スール』という傑作長編劇映画から約40年(ドキュメンタリー『マルメロの陽光』も含めると約30年)の歳月がそのまま詰まった物語の重みと、今の時代に問いかける「映画についての映画」としての重みにクラクラしてしまった。劇場で観ることができてよかった。

❒ 2月16日
昼頃起きて、食べてちょっと髪を切った。夕方、無理に運動してみたけれど途中でやめてしまった。完璧にやる必要なんてない。

❒ 2月17日
午前中、葬儀社の人と打ち合わせ。終わって、なんだかすごいだるかったのですこし寝た。実家に集まって葬儀用の飾りを作る。甥っ子・姪っ子たちは思ったより元気そうで良かった。昨日、姉から父の死を告げられた時は泣き叫んでいて大変だったそうだが。当たり前だ。毎晩、数珠をつけて鶴を折ったりして「じぃじがすこしでも長く生きられますように」とお祈りをしていた優しい子たちなのだから。みんなで大きな模造紙に紙を貼って桜の木を作り、その周りに父の思い出の写真を貼った。姉の旦那さんが買ってきたケーキで姉の誕生日を祝う。

❒ 2月18日
お通夜。挨拶やその他諸々いろいろ気を使って家族はみんな疲れてしまったけれど、よく頑張った。子供たちもいい子にしていた。家族葬のはずがどこかから広まってしまい断りきれず、思ったよりたくさん参列者が来てしまう。供花も弔辞もたくさん頂いた。亡くなる間際、父は「孤独だ」とよく言っていたが、孤独は自分で作っていたのかもしれない。みんなで実家に泊まる。子供たちが寝静まった後、深夜まで話した。

❒ 2月19日
葬儀。火葬の最中、つらそうな姉の手を握った。おつかれさま。いろいろ予想外のトラブルもありバタバタしたけれど、無事に終わった。実家に着くとすぐに祭壇が届き、飾り付けをする。姉夫婦は帰り、母・弟・自分が残る。すこし寝て、出前を取って食べる。3人で夜中まで話す。

家族は生まれた時から積み重ねてきた長い歴史があるから、きちんと思い返してみると案外次々とエピソードが出てくるものだ。それから、友人との関係などよりもかえってみんな本音を隠しているものなのだなと思う。「実はあの時こう思っていた」とか「〇〇はあの時こう言ってたよ」とか聞き、また言うことができて、心のわだかまりが解けていく。自分は実は物心着いた時から父に対する苦手意識と大きなコンプレックスがあり、膵臓がんを宣告されておそらくもう長くないと分かってからの一年間も複雑な思い(愛憎)を抱えていたということを初めて打ち明けることができた。ますます酷くなっていく母に対する態度も許す事ができなかった。それでも亡くなる瞬間には一気にほどけて、心から悲しかったのだということも。もう残りもそれほど長くない数週間、数日間、弱々しくて可哀想な姿だが、父の姿をじっくり見守っている時間が好きだった。

風呂に入り、弔いに父のタバコでも吸うかとリビングに行ったら弟も起きていたので、二人でタバコを吸いながら明け方まで話す。弟とこんなに本音を交えて話したのは初めてかもしれない。自分が思っていたよりもいろいろ考えていたのだな。

❒ 2月20日
昼過ぎ、起きる。今日は徹底的にダラダラしようと思った。ダラダラした。明日から仕事なんてできるのだろうか。

夜、『50回目のファースト・キス』。純粋に楽しめる映画だった。記憶障害という重くなりかねない設定だが、ラブコメらしいノリで軽やかに描いている。ユーモアとペーソスのバランスが絶妙で、ちょっと笑えてちょっと泣けてちょっと考えさせられる。何よりドリュー・バリモアアダム・サンドラーの主演二人が良い。

❒ 2月24日
相変わらず昼起き。16時にユナイテッド・シネマで『哀れなるものたち』を観る。さまざまな要素(ヴィクトリア朝時代やスチームパンクなど)をミックスして作り込まれた独創的なビジュアルとは裏腹に、内容自体は分かりやすく開かれている。すくなくともランティモスの過去作と比較すると。特に主人公が旅に出て以降は、古典的な冒険・成長譚のように「『経験』して『成長』していく」姿が明快に描かれている。哲学的問いやフェミニズム的なメッセージがやや内容に先行している印象もあるが、寓話としてはとても面白いし、最大の関心事が性的な部分にあるのもユニークだ。エマ・ストーンを筆頭に、マーク・ラファロウィレム・デフォーなど役者陣の演技も素晴らしかった。

夜、『The Bear』シーズン2をようやく観終える。最高だった。ドナルド・グローヴァーの『Mr.&Mrs. スミス』を観始めた。