2023年10月のこととか

❒ 10月1日
なんだか気持ちの悪い天気。完全に出かける気満々でいたけれど、風邪を引いたのか咳が止まらないのでやめておく。コロナが流行り出してから一度も風邪を引いていないし、症状も咳以外はまったくないのでちょっと怪しい。

❒ 10月3日
昨日はだいぶよくなったと思って仕事に行ったけれど途中から鼻水が止まらなくなり、熱もすこし出てきたので本日は欠勤させてもらった。鼻水と咳はだいぶ引っ込んだが、37度前後の微熱・微微熱あたりを行ったり来たりしており、とにかく体がだるい。コロナに罹った時よりなんとなくきついかもしれない。頭も重い。一日寝転がって過ごした。夜、また8度近くまで上がった。

❒ 10月5日
まだ仕事に行けていない。下がったと思った熱がまた上がったり、引っ込んだと思った咳や鼻水がまたひどくなったり。そんな2日間。治りが悪すぎる。2日で『サマータイムレンダ』を一気見した。さすがに明日は出勤しないと。

❒ 10月7日
症状自体はだいぶ良くなったが、だるさだけはしつこく残っている。やっぱり風邪じゃなくて実はコロナで、その後遺症なのだろうか。とりあえず出かけた。晴天なのに外に出てもあまり気が晴れないし、疲れやすいから無理せず休み休み歩く。昨日は出勤して、倦怠感と闘いながら溜まっていた仕事をこなした。1日だけしか働いていないのにすごく疲れてしまった。過去2回コロナに罹った時は治りかけでも割とすっきり動けたのに。風邪(のような症状)と関係あるのか分からないけれど、昨晩はめちゃくちゃ気分も落ち込んだ。

映画館。『イコライザー THE FINAL』を観る。ヒリヒリするアクションスリラーとして楽しめただけでなく(派手なアクションこそ少ないが)、純粋にいい映画を観た充実感がある。老齢に差しかかったデンゼル・ワシントン(ロバート・マッコール)が、自らを受け入れそして守ってくれようとする人々の暮らす"安住の地"を見つける映画でもあるからだ。その背景が、物語のシンプルな勧善懲悪構造に重みと深い味わいを与えている。そんな愛する場所を脅かす悪党は、マッコールによって無慈悲に排除される。映画自体はジリジリと進むものの、いざマッコールと対峙した敵のイタリアンマフィアはサクサクと殺されていってしまう。その対比がおそろしい。明暗と深い陰影の際立つアーティスティックな画面、それから南イタリアの自然光をとらえた撮影が極めて美しいのも見どころ。

❒ 10月8日
家で映画。

アフター・アワーズ』。「スコセッシこんな映画も撮っていたんだ」という思わぬ喜びがあった。寝汗びっしょりかいて見た悪夢(出来のいい)みたいな話で面白い。眠いのになかなか寝つけない夜、眠ることをあきらめた日にまた観たい。

『わんぱく戦争』。あくまでタッチは軽快でユーモラスだが、タイトルのとおり本当に戦争(と政治についての)映画だったので驚いた。普通に名作。ラストも感動的。

❒ 10月9日
祝日休み。ありがとう。家で映画観て、夕方気合いで運動してみた。やっぱり体力がなくてかなり疲れてしまった。ちょっとうたた寝した。

『SMILE/スマイル』。よくできたオーソドックスなホラー映画で、なかなか楽しめた。ただ「感染する笑顔」という仕掛けの謎にやや物足りなさを感じてしまったのは求めすぎだろうか。というか、単なる"恐怖の仕掛け"に徹するのでなく、なまじ"トラウマ"と接続されるだけに期待が高まりすぎた感がある。「トラウマの克服なんて簡単にはできない」ということの暗示と、最後まで厭な映画で通しているところは好感が持てるけれど。

『聖地には蜘蛛が巣を張る』。緊迫感あふれるクライム・サスペンスでありながら、物語の軸は「犯人は誰か?」という謎解きにあるのではない。映画を観ている側にはすぐに犯人の姿が明かされる。妻も子供もおり、特に問題のない暮らしをしていそうな所謂"ふつうの隣人"タイプの男サイードである(こんな身近にいそうな普通の人間がシリアル・キラーであるということがおそろしい)。本作が焦点を当てているのはむしろ、一連の娼婦殺害事件を通して浮き彫りになっていく"社会の姿"そのものである。

イラン・イラク戦争で殉死して英雄になれなかったことにコンプレックスを抱く犯人は、特別な(ねじ曲がった)使命感を燃やし「街の浄化」と称して次々に娼婦を殺害していく。真におぞましいのは逮捕後で、彼を英雄視する声は高まり、それを受けた本人も自分のアイデンティティをより強固なものにしていく。悪しき価値観が子供世代へと受け継がれていくことを示唆するラストの描写はあまりに重い。もう一つ注目すべきところは、女性ジャーナリストのラヒミが事件を調査する過程において「女性である」という理由で何度も差別を受け、時に危険な目にあうシーンである。サイードのような人間を醸成し擁護するイラン社会の空気と風潮がここでも強調されている。

❒ 10月13日
有給。グランドシネマサンシャインで15時半から『ミュータント・タートルズ:ミュータント・パニック!』を観る。

超アガった。『スパイダーマン:スパイダーバース』以降の革新的なアニメーション表現の進化の延長線上で、独自のスタイルを確立している。屋上を駆け回るタートルズの背景で怪しく輝く夜のニューヨークの街並みがあまりに美しくて感動した。3DCGアニメーションの中に見事に落とし込まれた落書きのようなラフなタッチの絵も、トレント・レズナーアッティカス・ロスの劇伴も、90年代ヒップホップの使い方もすべてが作品世界にマッチしていて最高。一つの作品の中でいろんな要素や音楽がごったに混ざり合っているところは、スケートカルチャーっぽいノリを感じる。

脚本はシンプルだが、移民の街ニューヨークを舞台にした"マイノリティ"の物語として観ることもできる。これまでの「ミュータント・タートルズ」関連作品ではあまり注目されてこなかった(らしい)「ティーンエイジャー」という設定を存分に生かした青春映画としても面白い。1作目の成功で上がりきった期待を上回ってきた2作目『スパイダーマン:アクロス・ザ・スパイダーバース』のような例もあることだし、今から続編がとても楽しみ。

上映後、グッズがまったく無かったのでTOHOシネマズの方に行ってみる。こちらにも置いていない。先々週まではあったのに、観るのが遅すぎた。電車乗って古本屋寄って帰宅。

❒ 10月14日
起きてからだいぶ暇なのにどこも行きたいところが思いつかず、ずっとダラダラしていた。なんにも興味のないツマンナ人間が爆誕。多言語話者の動画にハマって見漁ったり、クラロワをしたりしていたら夜になっていた。映画観た。

『Fair Play/フェアプレー』。こんなに胃がキリキリして嫌な気持ちになる映画はなかなかない。クロエ・ドモントすごい才能だと思う。ミヒャエル・ハネケリューベン・オストルンドの映画、それから『マリッジ・ストーリー』や『花束みたいな恋をした』を思い起こした。ヘッジファンド業界での社内恋愛という特殊な環境での話ではあるが、人間のあらゆる嫌な部分を生々しく暴いていて、悟りを開いた人間でもない限り必ずどこかで「自分にも似たような汚さがある」と感じてしまう作品になっている。おそろしい。トキシック・マスキュリニティやミソジニーへの強い問題意識があるのは間違いないが、もうすこし複雑に入り組んだ意識や関係性の領域へ踏み込んでいるように感じた。

❒ 10月15日
天気悪いから引きこもり。映画観て運動した。

『帰れない山』。山を舞台にしたダイナミックかつ繊細な人間ドラマで、「そう思うようにうまくはいかない」人生と人間関係の"悲哀"の重みを鋭くとらえている。だが何より目を奪われたのは雄大な自然を舞台にしながら、あえて横方向の広がりを削ぎ落としたスタンダードサイズの画面だった。引き締まった構図が美しすぎるし、ブルーノが冬の山小屋に籠る内省的なシークエンスとも見事にマッチしている。監督いわく「山の垂直性を際立たせるため」でもあるのだとか。

『バスケット・ケース』。伝説の(?)カルト・ホラーなだけあってツッコミどころ満載でひたすら悪趣味だけれど、バスケットケースの中身ベリアル出生の秘密が明かされて以降グッと面白くなる。意外とフランケンシュタイン的な切ない話だった。

❒ 10月21日
午後、映画館。かなり早く着いたので少しぶらぶらする。15時半から『キラーズ・オブ・ザ・フラワームーン』。観終わってからぐったりとしてしまうほど濃密な3時間半だった。オセージ族の居住地で起こる連続殺人事件は、オセージ族のコミュニテイ内部の視点から描かれるため「外部からの犯人探し」というミステリ的スリルとはまた違った緊張感が漂っている。

数多くのキャラクターが登場するが、物語の中心人物は、アーネスト・バークハートレオナルド・ディカプリオ)とオセージ族の女性モリー・カイル(リリー・グラッドストーン)の夫婦、それからアーネストの叔父で"キング"ことウィリアム・ヘイル(ロバート・デ・ニーロ)の3人。この3人の演技が素晴らしい。レオナルド・ディカプリオは人間臭く芯のないスカスカクズっぷりを、リリー・グラッドストーンはオセージ族の誇りと悲しみを、ロバート・デ・ニーロは善人然とした面つきの裏に潜む残忍さ(「あなたのためですよ」「〇〇したほうがいいですよ」的な圧のかけ方がこわすぎる)を宿し、わずかな表情の変化まで計算しつくされた見事な演技をみせている。

コミュニティ内部に入り込んでその一員(家族)として生活し、じわじわと侵食していく支配の形態があまりにおそろしくて震えた。搾取する白人側の二面的な心理が、そのおそろしさをさらに際立たせている。アーネストは先住民への残忍な事件に関与しながらもモリーのことを愛していた。ヘイルは自分がオセージ族にとってなくてはならない存在であると本気で信じている節があり、最後まで彼らに好意を抱いていた。

本作の内容が、特定の事件(アメリカ史の闇)として語り継がれていくことはもちろん重要だが、同時に今なお続くあらゆる支配構造のメタファーやアナロジーとしても理解できると感じた。現在も世界各地で人権軽視、人種差別が絶えないし、強者から弱者への搾取や支配は形を変えて巧みになっているとも言える。より身近な例でいえば、私たちの周りのあらゆる血縁家族(特に家父長的な色の濃い)にも似たような空気と支配構造がまん延しているかもしれない。そういう意味でも、100年前のこの事件が改めて語り直される意義がある。

❒ 10月22日
昼頃起きてコーヒー飲んでダラダラしていたら夕方。運動。映画観る。

『トリとロキタ』。もし自分がロキタだったら、彼女のように深い愛を保つことができるだろうか。もしトリだったら、あんなに優しい子でいられるだろうか。もちろん彼女/彼らは、互いに支え合うことで困難を乗り切っている面もあるのだが、自分の利益ばかりが追求されがちな社会において、この関係性にはシンプルで理想的な愛と友情の形があるように感じられて深く感動してしまった。

ダルデンヌ兄弟の作品は政治的テーマ性やメッセージ性についてよく語られがちだが、演出の手腕にももっと注目されるべきである。本作は最低限のアクションによる冒険映画であり、ソリッドなサスペンス映画でもある。シンプルでミニマルだが劇映画としても優れているのだ。過去作と比べてさらに削ぎ落とされた作劇は、かえって凄みを増しているようにも見える。

❒ 10月28日
不調で何もできず。とりあえず結構寝た。9月の後半と10月の初めに体調を崩して以降どうも調子が悪い。普段ほとんどできない口内炎を何度も繰り返し、胃ももたれ気味だ。思春期みたいな破壊衝動とイライラが常にあり、仕事中も不機嫌なのをなんとか隠している。仕事を終えて帰宅すると疲れてぐったりしてしまい、暗い気持ちで夜まで過ごしている。自分でも表情の変化が少なくなったのが分かる。あまり笑う気になれない。

そういえば、10月は無気力すぎてあまりお金を使っていないからいい節約にはなっている。

❒ 10月29日
13時、豊島園。友人2人と合流。THE GIANT STEPへ。安定の美味しさ。ハンバーガーは一番好きな店がなかなか決められないけれど、ここかもしれないと思い始めている。

14時40分からユナイテッド・シネマで『北極百貨店のコンシェルジュさん』を観る。映像化されることによって原作の誇張表現やユーモアがしつこい印象にならないか心配だったが、良いバランスに収まっていて素直な気持ちで楽しめた。70分間で話もうまくまとまっているし、色づかいも可愛い。欲の欲を言えば、原作の絵の細かい線の雰囲気がもっと取り込まれていると嬉しかった。『かぐや姫の物語』レベルのハードワークが要求されるか…。

上映後、titi Cafeでケーキやコーヒーを注文してしばらくゆっくりする。友人に誕プレを渡した。18時に友人1人帰宅。残った2人で江古田へ。移転したBAZZSTOREに入り服を2着購入。久しぶりに古着屋でいい買い物ができた。少しお腹も空いてきた。ロイヤルホストに入って2人で閉店まで好き放題食べまくった。カロリー摂りまくりの日。しばらく夜の江古田を徘徊して、終電で帰宅。友人たちのおかげで少し気力が回復した気がする。

❒ 10月30日
月曜。休み。家でゆっくり音楽聴いて運動して映画観た。

『ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい』。正直かなりきつかった。最後まで観ても「七森や麦戸と同じ"ぬいぐるみとしゃべる"タイプの人が観て慰めを得る(傷を舐め合う)ための映画」という印象が拭えなくて、それ以上の豊かさや価値を見出すことができなかった。作者側の意図としては、彼/彼女らが「正しい」わけでも「正しくない」わけでもないという描き方をしたかったのかもしれないが、作品全体からどうしても偏った意識が透けて見えてきてしまう。どうにも嫌な感じのルサンチマンの発露や選民意識のようなものすら感じてしまうのは、優しくなさすぎるからだろうか。

"ぬいぐるみとしゃべらない"サークル員である白城というキャラクターを通してもっと複雑なところまで描きたかったのかもしれないが、その試みもうまくいっていないように感じる。結局は、"ぬいぐるみとしゃべる"人にとって作品上都合のよいだけの登場人物に見え、ラストの独白によってその印象はより強まった。

自分にとって優れた芸術作品とは、意識を"揺さぶる"ものであって、似た者同士が同じような問題意識を共有・反復して安心感を得るようなものではない。自分自身この映画の登場人物たちとは重なる部分が多いと思っているが、それゆえに強い心理的抵抗を覚える。「わからない」のではなく「わかる」部分が多すぎるのだ。それから、個性的なキャラクターが何人か登場するのに全然群像劇的に回っていないのももったいないと感じた。メッセージと問題意識はあっても、より複雑な領域に踏み込み得るはずのドラマがない。

アンダーカヴァー』。漂う哀愁と緊張感がたまらない。ホアキンもたまらない。悲劇が待ち受けているのは分かり切っているのに、それでもサスペンスは生まれるのだ。見通しの悪さが強調され、それでいていつもあっけなく(虚しく)終わるアクションシーンには「流麗」や「優美」とはまた違う独特の魅力がある。まるでキャラクターの内面世界を反映しているよう。父親の存在の大きさが根っこにあるところもジェームズ・グレイらしい