2023年9月のこととか

❒ 9月2日
ギター弾いて、映画観た。運動できなかった。

『逆転のトライアングル』。無邪気に面白いと言いづらい感じはあるものの、意地の悪さも含めてリューベン・オストルンドの作品はやっぱり面白い。前2作に比べると良くも悪くも「わかりやすさ」と「エンタメ性」が前傾化している印象はあるけれど。どこまで人間を皮肉っていいのか、憎悪を向けたりからかいの対象にしたりしていいのかのバランスは難しいが、現代社会の格差の構造自体は風刺されて然るべきだとも思う。

本作もオストルンドの過去の作品の例にもれず社会実験的である。とはいえ、結構ちゃんと映画映画しているところもあるのが信頼できる。高級食材(傷んだ)をふんだんに使った船長のおもてなし「キャプテンズ・ディナー」の最中に次第に船の揺れが激しくなり、船酔い客が続出して嘔吐と溢れ出す汚水の地獄絵図と化すシーンには映像ならではの力強さとカタルシスがある。しかし、そんな単純なインパクト重視の危うさもある「富裕層汚物ゲロまみれシーン」より個人的にはむしろ、それまでの船内の絶妙な人間模様のキモさ、違和感、緊張感、ひずみ、フラストレーションが次第に強まる"揺れ"として映像的に表現されている部分の方が優れていると思う。

ガメラ2 レギオン襲来』。ものすごい迫力の特撮と作り込み。平成ガメラ前作より映像の質は数段グレードアップしている。しかもさらに大人向けな内容になっていて、終始画面も暗くダークな魅力がある。「レギオンは繁殖過程で大量の酸素を発生させるため、人間のみならず現在の地球の生態系自体の敵となる」というような、細かい設定や作り込みもすごい。

❒ 9月3日
昼過ぎに新宿。新宿武蔵野館で『エドワード・ヤンの恋愛時代4K レストア版』を観る。群像劇としての複雑さはあるものの、ロメールウディ・アレンを彷彿とさせる軽やかなラブコメディの趣も感じられてめちゃくちゃ面白かった。特に後半は超笑えます。『牯嶺街少年殺人事件』の直後に公開された作品であるというのは驚きだが、映像に時代のアイロニーと重みが宿っているところはやっぱりエドワード・ヤンの映画である。

照明を生かしたアーティスティックなショットの数々は奇跡的なほど美しい。ヤンの映し出す光と闇は本当に豊かだ。光の中に虚無と寂しさ、闇の中に希望が見え隠れするような単純でない豊かさがある。小説家のストイックな部屋の、演出家の煌びやかな舞台装置の、夜更けのプールサイドの、夜明け前の薄暗いオフィスのーー光と闇。明暗の使い分けと構図が印象的なシーンは山ほどある。個人的には、エドワード・ヤンのフィルモグラフィの中でも屈指の作品であると思う。

夕方、最寄り駅まで電車で移動して一杯飲んで帰った。

❒ 9月7日
なぜか有給。有給を取る日が選べないタイプの最新型の職場なんです。引きこもって映画観て運動した。

『イン・ザ・スープ』。スティーヴ・ブシェミはもちろん、シーモア・カッセルがとても良い。カッセル演じるジョーは、まさに映画製作と映画というもの自体のうさん臭さ(とその魅力)を体現したようなキャラクターだ。2020年製作の『スウィート・シング』同様に魔法のような煌めきで溢れた小品で、アレクサンダー・ロックウェルの映画作りに対する基本的な姿勢が当時からまったくブレていないということが分かる。

『ウーマン・トーキング 私たちの選択』。観始めるまでは正直すこし構えていたけれど、映像と音響が良くてすんなりと入り込めた。脚本は特定の宗教コミュニティ内で起きた実際の事件を元にしているが、映画としてはあくまで寓話的に描くことで"特殊性"よりも"普遍"的な問題意識を際立たせている。納屋という閉鎖的な空間を外れて時折映し出される雄大な自然・風景描写も、より広い世界へと向かうスケールの大きさを感じさせる。

「理解のある男性」としてのオーガストの存在がすこし取ってつけた配慮のような感もあるが、物語の結末に大きく関わっていることやドラマ性の部分を考えると仕方がないのかとも思う。

『クルージング』。ハードな描写と過剰な画面とアル・パチーノを見る映画。話自体は世間で言われているとおりイマイチ腑に落ちないし、安易で突飛な印象も受ける。一種のサイコスリラーだが、人物をあまり丁寧に描いていないところを「想像力を働かせる余地がある」と好意的にとらえていいのかかなり微妙。

❒ 9月10日
昨日仕事だったこともあってか、なかなか起き上がれず2度寝した。9月になってから精神的に落ち込むことが増え、無気力でなかなか思うように動けない日が増えている(9月病?)。眼精疲労で頭の右側が痛い。眼精疲労は家にいても映画やドラマを観てしまって余計悪化しそうなので、自然を欲しまくっている友人と等々力渓谷へ行くことに。東京に住んでいるのに等々力渓谷まで行くのは初めて。

昼過ぎに自由が丘駅で友人と合流。フェリーチェという店でオムライスを食べる。美味しかった。電車で等々力駅まで移動し、等々力渓谷公園へ。タイミング悪く公園内のかなりの部分が閉鎖されていた。ショック。等々力不動尊とかとりあえず入れる場所だけ一通り回って、芝生のある広場でゆっくりする。不完全燃焼だから多摩川まで歩くことにした。到着。景観が素晴らしく、しばらく川を眺めながら話したり、石の上を飛んで遊んだりしているうちにいつの間にか日が沈んでいた。等々力渓谷より正直こっちの方を楽しんでしまった。

夕飯を食べるためにまた自由が丘まで移動。いろいろ迷った挙句、京城園という焼き肉屋に入った。最高。たくさん歩いて汗かいた後だから余計。焼き肉屋なんて滅多に行かないから余計。ビールも一杯飲んだ。ちょうどいい。口の中が幸せ。無限に食べられる気がしたが、ほどほどでシメて帰路に着く。充実した一日だった。

Netflixで実写版『ONE PIECE』シーズン1の最終話観て寝た。キャスティングがいいと思う。

❒ 9月16日
3連休初日。今週はあまりにも調子が悪すぎて、本日もそれを引きずってかほとんど何もできず、無気力で一日中ぼーっとして過ごした。動く体力、気力がない。たぶん精神的な問題。New Jeansの曲を聴きまくったりビデオを見まくったりしていた。ずっと好きではあったけれど、今日でやっと顔と名前が完全に一致するようになった。かっこよすぎ。

❒ 9月17日
動けた。というか、無理やり動いた。

新宿武蔵野館で15時から『熊は、いない』を観る。ジャファル・パナヒ自身が演じる主人公は、トルコでの映画撮影をリモートで指示するためにトルコとの国境付近にあるイラン郊外の村(おそらくイラン国家全体のアナロジーになっている村)に滞在する。その小さな村を主な舞台としながら、本作は複雑で奥深い。まず、パナヒの滞在する村で起こる拗れ(事件)と、撮影先のトルコで起こる拗れ(事件)とがパラレルに展開するという構造からして入り組んでいる。トルコでの映画は、ドキュメンタリーの体裁でヨーロッパへ脱出しようとする男女の行方を撮影しているようだが、次第にその虚構をあらわにしていく。

イラン国内で20年間の「映画製作禁止」と「出国禁止」を命じられながら政府の目をなんとかかいくぐり、カメラを通してイラン社会の現実を訴え続けてきたパナヒのような人が、映画の虚構性について触れる意味は重く、本作をより奥深いものにしている。どこまでも冷静な視点と誠実さをもって"映画"というものに向き合っているということが分かる。もっといえば本作は、劇映画とドキュメンタリー、フィクションとノンフィクションという明確な切り分け自体が本当に可能であるのか、というところまで迫っているように思う。「そもそも映画とは何か?」という問いを見たこともない地点(パナヒ自身の特殊な状況による)から突きつけるパワフルな作品であった。

『熊は、いない』というタイトルについて言えば、本作での"熊"が迷信だとしても、それを信じる人にとっては「いる」と言うことができるし、信じる人がいる限りは「いる」と言うこともできる。また、「熊はいない」と言うことによって逆説的に「熊がいる」ことを強調しているようにも思える。タイトルの意味からして重層的である。

新宿を出て豊島園まで移動してTHE GIANT STEPで飯。しばらく時間をつぶしてから、ユナイテッドシネマで『アステロイド・シティ』を観る。入れ子構造がややこしいのは間違いないが、事前に「難解」「よく分からない」と聞かされまくっていたのがかえってよかったのか、思ったより楽しく観ることができた。画面の充実度の異常な高さはさすがウェス・アンダーソン。フォトギャラリーを見返してみてもやっぱり画にインパクトがあるし、宇宙人のビジュアルも忘れられない。

1950年代のアメリカを舞台にしながら、安易なノスタルジーとは距離を置いた批評的な視点を感じる。ウェス・アンダーソン独特の誇張された箱庭的世界によって「ファンタジーランドアメリカ」の虚飾性が強調されているように思う。

❒ 9月18日

家で映画2本。

『伯爵』。やっぱりパブロ・ララインすごい。なんだこれ、なダークホラーコメディの怪作。禍々しい映像にしつこくつきまとう快楽的な劇伴。思い切った史実改変によって風刺に振り切った脚本。すべてが過剰な中で、カラーでなくストイックなモノクロの画面にしたのはナイス判断だと思う。できれば劇場で観たかった。吸血鬼マーガレット・サッチャーの登場(とピノチェトとの関係)だけでも驚くのに、最初から最後まで実は映画の語り部だったと分かった時の驚きたるや。シンプルな仕掛けだけどものすごく効果的なんだよな。

クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲』。「クレヨンしんちゃん」という枠の中ですごいことをやっている。基本ナンセンスコメディでシリアスになりすぎていないのが良い。20世紀から21世紀へといたる西暦2000年前後の空気感をキャプチャーした時代の記録としても大きな価値がある。

自分は「進歩」とか「未来」とか「家族」というものの価値を心から信じることができないひねくれ人間なので、すこし複雑な気持ちにもなったけれど。ひろしの複雑な葛藤の描写などを見るとそういう人たちを断罪し切り捨てようとしている映画ではないと思うが、どうしてもしっくりこないと感じてしまう部分もある。なぜか理想的な「過去」と結びつけらている「同棲」に対して、「未来」と結びつけられた「家族」(結婚して子供を産み育てるいわゆる"ふつう"の家族)が勝利をおさめるという話にもみえるのだから。

しんのすけが東京タワーの階段をかけ上がるシーンの追われるようなカメラワークに息を呑んだ。すこし『長靴をはいた猫』の終盤の追っかけシーンを思い起こす。

❒ 9月21日
欠勤した。

昨夜、以前から違和感のあった扁桃腺が腫れて血がドロドロ出てきたのだ。扁桃腺はよく腫れるけれど血が出てきたのは初めてで、時折ゼリーのような血の塊も排出される。口を開けて喉を見てみるとでかい血豆のようなものができていてすこし心配になった。抗炎症剤を飲んで一晩寝たら腫れはだいぶ引いてしまったのだけど、念のため朝から耳鼻咽喉科に行った。見てもらってレントゲン撮った。たぶん大したことはなさそうで、血豆のようなものも嘘みたいに消えてしまっていた。熱もないし、抗生物質だけもらってパン買って帰った。パンってそそられるものを適当にトレーに放り込んでいくとついつい買いすぎてしまう。

そういえば、病院で触診の時に「首の筋肉が尋常じゃない」と言われたのだけど、まったく意識したことがなかった。今まで自分の首は割とヒョロいと思って生きていた。昔レントゲンを撮った時に「男性にしてはかなり首が長いですね」と言われたこともあったから。ストレートネックで姿勢も悪いから首周りの筋肉が凝りまくっていただけという可能性もある。それにしても、さすがに「尋常じゃない」は言い過ぎな気がする。

おまけに昨夜は、原因不明の初失神も経験した。洗面所で急に眩暈がしてきて目の前が白くなってきたので部屋のベッドまで移動しようと一歩踏み出したあたりから完全に記憶がなく、気がついたら気を失ってドアの前でぶっ倒れていた。意識を取り戻す直前「朝か!?仕事に行かなくちゃ」と思って目覚め、しばらくは何が起こったのか理解できなかった。強烈な眩暈に襲われる夢を見たような気がする。夢じゃなかった。どうやら現実のようだ、と気づく。しばらくはそのままの体勢で放心状態だったものの、起き上がったら寝起きくらいのテンションで動けるもんだからそのまま風呂に入った。大きな怪我がなくてよかった。ドアに打ちつけたのであろう左目の横が今も少しだけ腫れているくらい。ここ最近心身ともにだるくて本調子じゃなかったから、心労も含めて疲れが一気に出たのかもしれない。

11時ごろ帰宅。買ったパン食べて薬飲んで夜までダラダラ過ごした。

❒ 9月23日
映画観て運動した。

『レッド・ロケット』。冒頭、いきなりイン・シンクの「Bye Bye Bye」が流れてきて笑った。インシンクて…さすが。ショーン・ベイカーはこれまでも社会の周縁にいる人たちを描き続けてきたが、本作はテキサスの片田舎で未成年の女性を利用しようとしている元ポルノスターの白人中年男性という、今もっとも共感されないであろう人物を主人公に据えているところに新境地を感じる。

とはいえ、全体としては非常にショーン・ベイカーらしい映画だった。あくまで批評的な視点を保ちつつ、どんな境遇の人間も突き放すことなく同じ目線に立ち、シニカルになりすぎずユーモラスに描く。カメラはクソみたいな出来事だけでなく、そこに広がる美しい瞬間もとらえる。日常スケッチ的なリアリティと叙情的な映像美を同居させるバランス感覚。基本的に「どうしようもない」人物である主人公のマイキーが魅力的に思えてしまう場面も何度もある。真に「現実に根ざした」映画とはこういうことなのだと思う。

『ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー』。とにかく映像のクオリティが高くて、ポップでカラフルで目に楽しい純粋エンタメ映画だった。ストーリー自体はシンプルだが、マリオとルイージがニューヨークのブルックリンに住むブルーカラーのイタリア系移民であるという設定をはっきり打ち出したことが物語の深みになっている。ゲームオリジナルからの大きな改変やひねりがあまりないのが潔くてむしろ良かった。あまりやりすぎても面白くなくなると思う。

❒ 9月24日
昨晩あんまり寝れなかったので眠い。9時20分ごろに友人と池袋で待ち合わせ。TOHOシネマズで『ミツバチのささやき』を観る。改めて(映画館で)観る『ミツバチのささやき』やばすぎる。初めて観た時よりも圧倒的に好きになった。絵画のような構図も、こだわりつくされたライティングも、あまりに魅力的に撮れているアナ・トレントもすべて堪能した。映像面では、特に沈むような陰影の深さに圧倒された。物語もぼんやりと観た初回よりはっきりと追うことができて、結果逆に謎は増えたけれど「解釈の余地」としてより魅力的に感じることができるようになった。ゾッとするようなおそろしさもあって奥が深い。

上映後、昼、ハンバーガーを食べにNo.18に行くと結構並んでいたので、CHILLAX BURGER&WINEへ変更。こっちは空いている。野菜がボリューミーだしタルタルソースが結構美味しくて気に入った。もう一度行きたい。店名に関しては個人的に気になるけれど。もう一本映画を見るか散歩するか迷い、結局雑司ヶ谷まで歩く。今日は晴れているのに涼しくて気持ちがいい。Tシャツ一枚で快適に過ごすことができる。だんだん秋が近づいてきた。途中、往来座に寄って古書を漁る。ここ、かなりお気に入り。ベストアルバム的な感じがある。『シャロンおばさまのセンスアップノオト』というめっちゃおもろい本を見つけて購入。友人はリン・ラムジーの『モーヴァン』の未開封DVDを見つけてたまらず購入していた。

雑司ヶ谷周辺を散策。鬼子母神で参拝して、アクセサリーショップに入ったり、野良猫に熱い眼差しを送ったり、都電荒川線を眺めたりした。ちょいと疲れた。おやつに絶好の時間。リールズ西洋釣具珈琲店に入って、アイスコーヒーとプリンを注文。しばらくゆっくりする。出て、のぞき坂見てからTOYAまで歩く。やっぱ眠い今日は。でも歩く。まだ夕飯には少し早かったので、時間つぶしがてらまっすぐ目白駅まで歩く。

お腹の好き具合もそんなにって感じだし時間も少し早めなので、ちゃちゃっと軽く食べられる店を目白駅周辺で探す。パスタで調べたら出てきたMAC's CARROTという店に入る。自分はチキンカレー、友人はベーコンとしめじのパスタ(ホワイトソース)を注文したら、むしろ普通の店よりかなり量が多かった。チキンカレーはでっかいチキンが丸ごと入っているし、パスタも結構な量がある。でも悪くない感じ。昼間に荒らしにでもあったのかと思うくらい食材がなくて、注文できない料理が多くて面白かった。かなり個性的な店員さんがいたな。心なしかお客さんにも変わった人が多い気がした。お腹いっぱい。出て近くの古着屋に入ると、これまたかなり個性的な店員さんがいてすごい勢いで話しかけられた。話しかけられすぎてあんまり服を見れない。おもろかった。再び池袋まで歩いて解散。帰宅。カロリー摂りすぎたけど2万歩くらい歩いたからたぶん大丈夫。

❒ 9月30日
起きて食べてセルフ散髪。まあまあ切った。出かけよう出かけようと思いつつ怠くてどこにも行けなかったから、家で映画を観た。その虚しさと罪悪感から夕方と深夜にすこし散歩をした。これ以上落ち込まないように家で運動もした。休日にろくに外出できないと「今日はダメな日だったな」とか思ってしまうネガティブな部分をどうにかしたい。もっと気楽さと適当さを身につけたい。逆にやる時はしっかりやるメリハリも欲しい。

『母の聖戦』。メキシコ麻薬カルテルの理不尽な暴力は、いまやあらゆるフィクションにおいて絶好のエンターテイメントの素材と化している部分もあるが、本作は綿密な調査を元にまるでドキュメンタリーのような生々しさでその実態を描き出している。とはいえ、劇映画としてのパワーも失っておらず、観る者は主人公シエロの目線で物語に没頭することができる。本作は当初、ミリアム・ロドリゲス(本作の話の元になった実在の人物)に密着したドキュメンタリーとして企画されていたが、さまざまな危険や制約から断念したそう。『La Civil(市民)』という原題があまりに重く響く。

『ヘンリー・シュガーのワンダフルな物語』『白鳥』『ネズミ捕りの男』『毒』。Netflixで観られるウェス・アンダーソンの中編、短編映画。長編作品でないとはいえ、アンダーソンらしい凝りまくった画面は健在。というかクセはかなり強いが、話自体が面白いので割とすんなり映画に入り込める。もっともアンダーソンの関心は、ストーリー自体よりも「ストーリーテリング(語り)」の方にあるのかもしれない。演劇的な演出やメタ演出、入れ子構造を多用して積極的に映画の嘘性を強調する。そういう意味では『アステロイド・シティ』との共通点も見出せる。