2022年10月のこととか

10月1日
10月になってた。起きて昼過ぎまでダラダラしてからセルフカット集中して手を動かすのはメンタルにとても良い。その後、運動をしたらもっと良い気分になったので、夕方、久しぶりにギターを弾いた。3つもアクションをこなして今日は偉い。

夜、『殺しの分け前/ポイント・ブランク』を観る。真っ当なノワールかと思いきや、まるで夢や亡霊のような演出。多用されるフラッシュバック。ジョン・ブアマンの映画は奇妙なものばかりで時々観たくなる。深夜、またギターを弾いてから寝た。

❒ 10月2日
相変わらず出不精が続いていて、一日家にこもっていた。起きてから既に月曜日を想像して少し憂鬱になる。

クライシス・オブ・アメリカ』を観る。あらゆる設定がゆるいものの、さすがジョナサン・デミ(とタク・フジモト)と言うべきなのか(?)、画面設計や撮影がとにかく良くてとても好き。正統派ポリティカル・スリラーというよりどちらかというとSFが強いが、間違いなくアメリカの不安をキャプチャーしている。デンゼル・ワシントンメリル・ストリープ、リーヴ・シュレイバーの演技も良い。

夜、『アウステルリッツ』を観る。WGゼーバルトの『アウステルリッツ』は個人的に最も好きな長編小説の一つ。このドキュメンタリー映画は、その同名小説に着想を得て制作されたもの。ベルリン郊外にあるザクセンハウゼン強制収容所跡地を舞台に、痛ましい歴史の記憶がダークツーリズムによって消費される様を映し出す。

ダークツーリズムについては以前から考えていたことでもあるのだけれど、それに近い興味の持ち方をすることや、それに近い行動を取ることが自分自身にも無いわけではない。それに、悲しいかな全ての人間の性と密接に関わっているものだとも思う。だから、この映画を観ていても「自分はこの人たちとは違う」「自分はこんな人間ではない」とは、どうしても思えないのだ。きっとセルゲイ・ロズニツァ監督も、遊び半分でツーリズムに訪れる"個人"を断罪したかったわけではなく「痛ましい歴史的記憶」と、そこに「ある程度の時間が経ってから接続する人々("群衆")の意識」との乖離の現実を浮かび上がらせたかったのだろう。だからこそ、(元々の撮影スタイルももちろんあるだろうが)インタビューやナレーションを排し、定点カメラによる長回しで徹底して客観的に撮ることに拘っているのかもしれない。

10月8日
また3連休。3連休が多くてありがたい。

12時頃、友人2人と吉祥寺で待ち合わせ。WAKIE WAKIEというハンバーガー屋に向かう。めっちゃくちゃ美味しい。白いバンズがもちもちで、ハンバーガーとしてだけでなく、具を挟みこんだパンとしても美味しい。野菜もパティもソースもチーズも最高でした。店内で、友人と一緒に買った誕生日プレゼントをもう一人の友人に渡す。「パンと音楽とアンティーク」で見つけたとても可愛い陶器の壁掛け。

その後、しばらく井の頭公園近くの古着屋を散策。最近アクセサリーなんてつけていないけれど250円のシンプルなネックレスがあり、安いし買っちゃおうと思いレジに持っていったところ1650円だった。まあいいやと、ここはノリで買った。みんな労働で疲れていて公園には入らず。今日は歩くよりも座ってのんびりして食べて飲む日。

開催中のイベント、吉祥寺 BEERandWALKへ。混んでいたため露天やテラス席は諦めて、クラフトビールのお店に入る。3種類のビールとエビシソ餃子を注文。友人が飲んでいたアップルティーのビールがとても飲みやすくて美味しかった(名前は忘れた)。そろそろ甘いものが欲しくなり、くぐつ草へ。ここはいつ行ってもある程度混んでいる気がする。紅茶やコーヒーやケーキなどを注文して、おしゃべり。飛沫防止のパーテーションでがっつり仕切られていて、対面の話し声が聞き取りづらいのが逆にちょっと面白かった。18時頃解散。家に帰っても何だか食欲が爆発していて、煮込みラーメンをたらふく食べた。食欲の秋とはこのことか。

深夜、友人と話していたら急に今から集まろうということになり、お酒を買って4時頃公園に集合。そのまま朝まで話して、7時過ぎ頃帰宅。即寝る。久々にそんなことをした。

❒ 109
昼頃起きる。前日は朝まで起きていたのでちょっと寝足りない。適当にカップヌードルを食べ、少しだけギターを弾く。15時頃、布団に寝転がったら3時間くらい寝てしまった。

夜、『TITANE/チタン』を観る。今年観た中で最も奇妙な映像作品。そして強烈。まるで二つの映画を一つにくっつけたようなプロットも予測不能風変わりで良い。デヴィッド・クローネンバーグのボディ・ホラーの作品群や『鉄男』や90年代あたりの暴力的な映画の数々などを想起して懐かしさを覚えたが、ジェンダーセクシュアリティについての意識と価値観の取り込み方などを含め"現在の映画"だと思った。しかもメッセージが前傾化しておらず、あくまでも禍々しくていかがわしくて都合の良いファンタジーなのだ。音楽の使い方もセンスが良くて、何のメタファーなのかなどあれこれ考えるよりもまずは視覚的、聴覚的に楽しめる作品。主人公アレクシアを引き取る初老の消防士ヴァンサンを主役として観ても面白い。

❒ 1010
映画を2本観た。運動をした。

『アンラッキー・セックスまたはイカれたポルノ』。今年日本公開されていて今年観た映画の中では『TITANEチタン』が最も奇妙な映画だと思っていたが、こちらもまた違った方向性で負けず劣らず変な映画。観る人をおちょくったような〈自己検閲版〉の修正(監督としては不本意な検閲ながら、それ自体を作品にしてしまおうという強い意志を感じる)に、人を食ったようなマルチエンディング。全編にわたって挑発的だが、同時に、だからこそ真面目な映画であるという印象を受ける。街中や人々の間に溢れる卑猥をあぶり出して「何が本当に卑猥なのか」を問う。3部構成のうちの第3部の校内裁判のシーンは、めちゃくちゃ今の大衆と世論のあり方っぽくて観ていて地獄のように辛いけれど、めちゃくちゃ面白い。個人的には、ルーマニアの社会や歴史についてもう少し明るければ更に楽しめたはずだと思う。

ラスト・オブ・モヒカン』。マイケル・マンはやっぱりコスチューム劇とかじゃない方がいいなぁと思いながら観ていたが、活劇のシーンなどはやはりさすがだし、結局画面の力にどんどん引き込まれていく。ラストで白人の息子ホークアイではなく、正統なモヒカン族の後継者に花を持たせるあたりは取ってつけたようでもあるが、それでもグッとくる。というか、ラスト20分ぐらいの展開とアクションにはどうしたって強く胸を打たれてしまう。やはり、マンの映画はそのシグネチャーを感じているだけで楽しいので、どの作品も観て損はないのだと思う(『ブラック・ハット』だって本当に面白いんだよ!と強調しておきたい)。

❒ 1015
12時頃、多摩川河川敷のもみじ市へ。友人一人と合流。ビーズでブレスレットを作ってきてくれて、とても可愛くてめちゃくちゃ気に入った。たくさん着けます。

とりあえず、ざっと作家さんたちのお店を見て回る。お腹が空いてきた。お昼時ということでフードエリアはどこも長蛇の列。諦めて京王多摩川駅まで戻って店に入り、自分はハヤシライス、友人はタコライスを食べる。店内のテレビでぎっくり腰について特集していて、このままだといつか自分もやりかねないし、ちゃんと運動して気をつけようと思った。河川敷に戻ってコトリンゴのライブを少し見る。日差しが強くて結構暑い。

その後、もう一人の友人も合流。長かった髪の毛をバッサリ切っていて驚いた。カッチリとした前下がりボブになっている。この友人、いろんな髪型や服装が似合うので羨ましいといつも思う。さっきより空いたフードエリアで並び、チキンを買って3人で頬張る。16時に店は閉まるため、もうあまり時間がない。もう一周見て回る。いろんなことを考えつく人がいるものだな、と感心した。自分は特にものづくりをしている人ではないけれど、かなり良い刺激になった。

夕方、京王多摩川駅周辺をちょこっと散策。調布駅まで電車で向かう。潤という喫茶店に入り、ケーキを食べておしゃべり。その後、友人が狙っていた居酒屋に行くも、混んでいて入れず断念。そんなにお腹も空いていないのでサイゼへ。混んでいてまた断念。ジョナサンに入る。適当に食って喋って解散。帰り、まだ元気だったので途中下車して一人で行きつけの古着屋へ行く。何も買わず帰宅。

❒ 1016
家で映画を2本。

マイアミ・バイス』。映画版の『マイアミ・バイスは昔から良くない評判ばかり聞いていたのもあったので、期待せずに観たところ結構楽しめた。幸いにして(?)ドラマ版も観たことがないし。でも同時に「イマイチ」と言いたくなる気持ちもすごくよく分かる。リアルな銃撃戦とマイアミの街の夜景をとらえたショットの美しさは「さすがマイケル・マン」といった感じで興奮するが、全体として内容的な印象が薄いことは確か。

羊たちの沈黙』。久しぶりに観返してみた。「地味な映画だった」と記憶していたが全然地味ではなく、スリリングで面白い。ただ、今観ると本格的なサイコ・スリラーというよりはB級然としていて、カルト的な人気を博すのは分かるけれど、アカデミー作品賞を受賞したというのはかなり不思議である。名作なのは確かだが。

説明めいたカメラのズームが多用されていたり、僅かな情報から人物像や背景を全て見抜いてしまうレクターのプロファイリングは技術というよりほとんど超能力の域であったり、救急隊員を欺いて脱獄するシーンにさすがにリアリティがなさすぎたり、などなど色々とかなりいかがわしい映画である。フィクションなので割り切って楽しめるけれど、アカデミー作品賞を取ったというのはやっぱり不思議だ。

この映画を大成功足らしめたのは、ジョディ・フォスターとアンソニー・ホプキンスの名演なのだろう。二人の演技の説得力が全てを上塗りしてしまう。アンソニーホプキンスの怪演は強烈な印象を残したが、現在の視点から見てより奥深いのはジョディ・フォスタークラリス)の方である。レクター博士は超越者でしかないが、クラリスは生身の"女性"の立場と不安を引き受ける。まだ甘ちゃんのティーンの頃には考えが及ばなかったけれど、明らかに"女性"の立場についての映画になっている。

男性達からクラリス(女性)へと一方的に向けられる性的で暴力的で蔑んだような視線。軽んじられ標的にされるという意味では、連続殺人の被害者たちと共通している。そんな中、レクター博士クラリスに向ける視線だけが全く異質なものに感じられるのも恐ろしい。

どうにもだるくて運動できなかった罪悪感が残る。また1週間後にでも頑張ろう。

❒ 1022
昼頃起床。曇り気味だけど暖かくて良い気候。久しぶりにぐっすり寝た。起きて適当に食べてぼーっとする。15時過ぎ頃、眠くなってまた3時間くらい寝てしまった。睡眠の日。

起きて運動。夜、『ALI アリ』を観る。冒頭、あまりに映画的な映像に引き込まれる。全体としてもちょっと入り込みづらいくらいに映画的な映画で見応えがあった。説明めいた演出やセリフは少なく、スポーツ映画ならではのエキサイトメントを残しつつもエモーショナルな感じを意図的に廃した乾いたタッチを両立している。マンの映画は映像としてはどれも間違いないのにプロット面で粗い部分が結構あったりして、それはそれでシグネチャーとして楽しめるのがずるい。

寝る前、『水の中のつぼみ』を観る。個人的に、主人公のマリーよりも、彼女の心を奪う魅惑的な少女フロリアーヌのキャラクター性の方が興味深かった。場合によっては単なる象徴的なファム・ファタールのようにも見えるが、もっと複雑なキャラクターである。自身の持つ魅力を利用してしたたかに生きているが、魅惑的すぎるがゆえに性的に男性を惹きつけてしまい女性からは憎まれる。それゆえ、誰よりも人間の浅ましさや卑しさに触れ、若くから諦念のようなものを身につけてしまっている。それでいて実は臆病な面もある。

フロリアーヌをシンクロナイズド・スイミング(アーティスティックスイミング)の選手に設定したシアマの感性は鋭い。水上では優雅で華々しい反面、水の中では必死にもがいている姿が彼女のキャラクターと境遇を的確に表している。ラストシーンでフロリアーヌはマリーを突き放すような形になるが、その理由もまず先に自分がマリーに裏切られたと感じたからだ。もしかすると本当の友達になれるかもしれないと思っていたマリーのことを、自身の性的な魅力に惹きつけられて寄ってくる無数の人間たちと同等であるとみなす。マリーよりフロリアーヌの今後のほうが心配で、実は最も悲しいキャラクターであるかもしれない。

『燃ゆる女の肖像』でシアマは意図的に画面上から男性の存在を排除していたけれど、この映画では大人の存在が排除されている。また、男性は登場してもあくまで得体の知れない部外者であり、その存在感は希薄である。内側を徹底的に描くことでその外側の構造をも浮かび上がらせるーー結果的に作品は批評性を帯びるーー巧みな手腕はこの頃から既に発揮されていた。

1023
暑いくらいの陽気。今年もうこれ以上暖かい日は訪れないだろう。昼、近所のハンバーガー屋で久しぶりに食べる。確認。いかにもアメリカンな感じで、バーガーもポテトもとても美味しかった。

午後、近くの映画館で『スペンサー ダイアナの決意』を観る。ダイアナの心理的な不安を基底とした、エレガントでスタイリッシュすぎる映像に惚れ惚れとした。どうしてこんなに素晴らしい撮影と演出ができるのだろう、と思うほど。そこにしつこく絡み合うジョニー・グリーンウッドのバロック音楽とジャズもダイアナの心情を巧みに表現している。いかにもイングランドロケ地はどうやらドイツらしいが)といった曇り空までダイアナの閉塞感と不自由に囚われた内面を反映しているようだ。そして、屋外シーンはほとんど曇天なのにこれがまた美しい。

どんどん幅と深みを増しているクリステン・スチュワートの演技も素晴らしい。身振りとセリフの微妙なニュアンスだけでなく、繊細な表情の変化と視線によってダイアナの複雑な感情を表現している。クリステン・スチュワートの顔のクローズアップで終わるラストは、その妙を完璧に理解した芸当だ。ダンスシーンの優美な身体性も本当に素晴らしくて泣けます。マリーを演じたサリー・ホーキンスの慈愛に満ちた演技も強く印象に残る。

ここにきてパブロ・ララインの演出はますます洗練されている。リアルな伝記映画を期待して観に行った人はきっとぽかーんとするだろう。冒頭で示されるように、この映画は「実際の悲劇に基づく寓話」なのだから。ところどころゴシック・ホラーめいたテイストもあって、その演出が本当に巧みで、ホラー映画好きとしてはパブロ・ララインにホラー映画を一本撮って欲しいとすら思った。

❒ 1029
日中、天気がいいのでどこかへ行きたいけれどなかなか出かけられない。なんだかソワソワして落ち着かず、本を読んだり音楽を聴いたり、立ったり座ったりを繰り返す。一つのことに集中できない。近所をウロついていると、道路のつきあたりのところに緑色の大きなカマキリがいた。腕に乗せたりして遊ぶ。カマキリと別れて数分後、つきあたりを利用してターンするために一台の車が進入してきた。ターンして去っていく車。「あ、その辺り、さっきカマキリが向かっていた場所なんだよな。まさか」と思って小走りで行ってみると、ぺしゃんこの死体。お腹から無惨に飛び出た黄色い卵。罪悪感でものすごく嫌な気持ちになった。自分がちょっかいなどかけなければこんなことにはならなかったのだ。何の悪気もなくハンドルを捌くドライバーの男性の顔と、カマキリの無惨な死体が目に焼きつく。

夕方頃、寝っ転がって本を読んでいたら1時間くらい寝てしまった。起きて、たまたま東京に来ていた友人を阿佐ヶ谷Roji16年パーティーに誘ってみると付き合ってくれることに。20時過ぎに到着。お酒を飲んでお菓子を食べて音楽を聴いて喋る。全然飽きない。結局closeの0時まで居た。DJの人たちのみならず、大好きなミュージシャン(驚くほど有名な)やライターの人とも会うことができた。「◯◯さん」と話しかけてみると、最初に「もしかして知り合い?」というような反応をしていた気がするのだけど、実際そういうこと本当に多いんだろうな。

出てそのまま真夜中の阿佐ヶ谷を徘徊。終電は無い。途中、コンビニに寄ってチキンを食べる。深夜の肉、肉たらしいほどうまい。適当に歩き回っていたら荻窪駅近くにたどり着いた。さすがに寒いし、どこで朝まで過ごすか作戦会議。カラオケに入る。広くて綺麗な部屋。朝、帰宅後、風呂に入って歯を磨いて寝支度を整えても何だか元気でなかなか眠気が来ない。しばらくして睡眠導入剤を飲んだら急激に眠くなった。就寝。9時過ぎ頃だったろうか。

❒ 1030
午後、のそのそと起き出す。カップヌードルを食べる。うまー。スープが体に染み渡る。絶対そんなことはないのだけど、麺を食べ終わったカップヌードルのスープを飲むたびに「何かの薬膳料理みたいで体に良いんじゃないかこれ」と思う。ちなみに薬膳料理という薬膳料理は食べたことがない。

『ジャッキー ファーストレディ 最後の使命』を観る。いくらでも感動的なヒューマンドラマにできそうなのに、ジョン・F・ケネディ暗殺後の国葬を前にしたわずか数日間のジャッキー(ジャクリーン・ケネディの混乱と懊悩と執念だけを徹底して描き出そうとしている。一代記ではなく、短い期間を集中して描くという部分は『スペンサー ダイアナの決意』(同じパブロ・ラライン監督作)と共通しているが、ある種のフィクショナルな開放感やゴシック・ホラーなテイスト、美しくも鮮烈な映像に新奇な快楽感のある『スペンサー ダイアナの決意』より本作はさらに潔くドライだ。それゆえに地味でもあるのだけど。

夜、運動する。オール明けなので頭も体もぼんやりしていて効率は悪い。寝る前に『ジェラシー』を観る。初フィリップ・ガレルフィリップ・ガレルの父モーリスの人生をモチーフにした脚本(共同脚本はガレルの妻キャロリーヌ・ドリュアス)に加え、出演者にも実の息子や娘を起用したパーソナルな映画ながら、人類の永遠の課題である厄介で普遍的な感情"嫉妬心"をテーマに扱っているので、物語はすんなりと入ってくる。ただ、だからといって明確な解答や、鑑賞者がそれぞれの感性で受け取るもの以上の一方的な教訓を押し付けたりはしない。ミニマルかつ巧みな演出によって、ただそこに「荷物を置く」ようにありありと活写するだけ。やがて人間関係の複雑なジェラシーの層が浮かび上がってくる。"ジェラシー"と聞くと何かドロドロしたものをイメージしてしまうが、モノクロームの美しい映像の中にスウィートな瞬間がたくさん詰まっているのも憎い。

今週は、とても疲れる新職場の方に2日行かなければならない。頑張ろう。